魯迅(ろじん)と藤野厳九郎(ふじのげんくろう)について

最終更新日 2023年9月4日ページID 007243

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魯迅(ろじん)と藤野厳九郎(ふじのげんくろう)    鲁迅和藤野严九郎 (中文)

●解剖学(かいぼうがく)教授・藤野厳九郎藤野厳九郎
-祖父と父-
 藤野厳九郎は、1874年7月1日、敦賀県坂井郡下番(しもばん)村(現在のあわら市下番)に生まれました。厳九郎の家は、江戸時代のはじめから続く医家でしたが、特に、祖父の勤所(きんしょ)は江戸で蘭学者宇田川玄真とその子榕庵(ようあん)に学び、父の昇八郎は大阪の有名な蘭学者・緒方洪庵が開いた「適塾」で勉強しました。祖父も父も立身出世を望まず、自分達が学んだ新しい医学を生かして人々のために尽したと言われています。
 

-塾教師・野坂源三郎(げんざぶろう)-
 厳九郎は学校へ行く年齢になると丸岡町にある平章(へいしょう)小学校に入りましたが、この頃は初等教育が十分に整っていなかったため、野坂源三郎という先生の塾で漢学や習字、そろばん等の教育を受けました。野坂源三郎は元福井藩の中堅武士で、若い時から漢学に志があり、1878年に土地の人達の招きで現在のあわら市中番(なかばん)に塾を開きました。厳九郎の漢学に対する深い造詣は、野坂源三郎の影響によるものであると言われています。
 

-解剖学教授・藤野厳九郎の誕生-
 厳九郎は、小学校から福井県尋常(じんじょう)中学校(現在の藤島高校)に進学し、2年生を終えたところで愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)に入学しました。医学校を卒業すると、母校である愛知医学校の解剖学教室に入り、助手から助教授になりました。その後、故郷の福井に近い第四高等師範学校(現在の金沢大学医学部)への転勤を希望しましたがかなわず、生命保険会社の社医をしながらしばらく東京大学で解剖学の研究をした後、恩師の紹介で仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に就職しました。最初は講師として就職し、1904年7月、周樹人(しゅうじゅじん)(後の魯迅)が入学する2ヶ月前に教授に昇格しました。

●魯迅の生い立ちと日本留学魯迅(青年)
-魯迅の生い立ち-
 魯迅(本名:周樹人)は1881年9月25日、浙江省紹興市(せっこうしょうしょうこうし)に周家の長男として生まれました。周一族は古くからの大地主でしたが、魯迅が生まれた頃には家運が衰え、祖父の入獄や、父の病死も重なって、先祖伝来の土地を手放さなければならないほど困窮していました。
 魯迅は11歳の時に紹興で最も厳格な塾であった三味書屋(さんみしょおく)で学び科挙(かきょ)※に備えていましたが、父が亡くなったため17歳の時に南京に行き、海軍の学校である江南水師学堂(こうなんすいしがくどう)に給費生として入学、続いて陸軍の学校の鉱路学堂(こうろがくどう)に入学しました。ここは鉱山採掘と鉄道の実務について教えるところで、魯迅はここを3番の成績で卒業したと言われています。

※科挙:中国で598年から1905年(隋から清の時代)まで行われた官僚(かんりょう)の登用(とうよう)試験。詩や儒教など古典の教養が問われた。
 

-日本への官費留学-
 魯迅は1902年に鉱路学堂を卒業した後、他の同期生とともに官費留学生として日本に留学しました。当時の清朝政府は日清戦争後ということもあり、近代化を担う人材育成のための日本留学を勧めていました。
 魯迅は最初、東京の弘文学院(こうぶんがくいん)に入学しました。弘文学院は清国留学生に日本語と普通教育を授けるため新たに設けられた学校でした。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けました。
 

-仙台医学専門学校への入学-
 1904年9月、魯迅は仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学しました。無試験で、授業料は免除されていました。魯迅は医学の道を選んだ理由について後に、「(鉱路学堂)卒業後、私は人種を改良して強種をつくっておかなければ強国になれないという考えから日本に行って医学を学んだ」と語っています。また、医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由でした。当時の仙台は人口が約10万で全国11番目の都市でしたが、この年の2月には日露戦争が始まっており、市内は戦時色に染まっていたと言われています。
 

●仙台での出会いと魯迅の転機
-仙台での出会い- 
 仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目で、その厳格さゆえに勉強に不熱心な学生からは敬遠されていましたが、一方で、魯迅のノート添削に見られるような優しさを内に秘めていたと言われています。
 

-魯迅の転機・医学から文学へ-魯迅(壮年)
 魯迅が医学から文学の道へと進む転機となった出来事は、「幻灯事件(げんとうじけん)」として知られています。これは、魯迅が2年生の時、細菌学の授業中に見せられた日露戦争のスライドの中の一枚が、魯迅に大きなショックを与えたというものです。そのスライドは、中国人がロシア軍のスパイとして捕らえられ、処刑される場面でしたが、魯迅は、処刑の場面の残酷さもさることながら、その光景を見つめる中国人の無表情さに衝撃を受けました。魯迅は、その時のことを「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切ではない、と考えるようになった。・・・我々の最初になすべき任務は、彼らの精神を改造することである。そして、精神の改造に役立つものと言えば、私の考えでは、むろん文芸が第一だった。(「吶喊(とっかん)」より抜粋)」と回想しています。
 文学の道に進むことを決心した魯迅は、藤野厳九郎に仙台医学専門学校を退学することを告げました。その時の情景を、魯迅は「彼の顔には、心なしか悲哀の色が浮かんだように見えた。何か言いたそうであったが、ついに何も言わなかった。」と記しています。藤野厳九郎は、魯迅が仙台を立つ前に自宅に呼んで自分の写真を渡しました。裏には「惜別 藤野 謹呈 周君」と書かれていました。魯迅が仙台を離れたのは1906年3月のことでした。

●魯迅と藤野厳九郎が教えるもの
 魯迅と藤野厳九郎の師弟関係は、小説「藤野先生」により、日中両国をはじめ広く世界に知られることになりました。魯迅は、作家、思想家、革命家としての側面を併せ持つ国民的英雄であり、その作品は、中国で世代を超えて読み継がれています。特に「藤野先生」は、「故郷」とともにほぼ継続的に中学校の国語教科書に掲載されていることから、中国人の大半は「藤野先生」を読んだことがあるか、少なくともこの作品の存在を知っていると言われています。
 日本においても魯迅は大変ポピュラーな存在であり、研究活動も盛んです。魯迅が外国人でありながら日本人にとって馴染深い作家となっている大きな理由は、中国と同様、魯迅の作品が教科書に採用され続けてきたところにあります。日本では「故郷」が中学校の殆どの国語教科書に掲載されている他、「藤野先生」も、高校の一部の現代文教科書等に掲載されています。

 「藤野先生」が、国境や世代を超えて読み継がれている理由は、この小説が、人の心を打つ感動的なエピソードであるばかりでなく、複雑化する現代の国際化社会にも通じる、普遍的なテーマと教訓を含んでいるからではないでしょうか。二人によって示された、国籍や立場の違いを超えた、お互いへの尊敬に満ちた人間関係のあり方は、日中両国をはじめ、国際社会の将来を担うこれからの世代への、色あせることのないメッセージであると言えます。

 あわら市には「藤野厳九郎記念館」 があります。この記念館は、昭和58年芦原町と中国の浙江省紹興市との間で締結された友好都市を記念して、藤野家遺族の方から三国町宿にあった旧居が寄贈されたものです。そして、芦原温泉100周年記念祭の昭和59年7月に「藤野厳九郎記念館」として、あわら市文化会館横に移築 されました。さらに、平成23年には、同年整備された、あわら温泉湯のまち広場に移築されました。記念館内の資料室には、藤野厳九郎 と魯迅との国境を越えた師弟関係ゆかりの資料が展示されています。

 

 <参考文献>
「魯迅と藤野厳九郎」 泉彪之助・藤野明監修、芦原町/芦原町教育委員会、2003
「魯迅辞典」 藤井省三著、三省堂、2002
「魯迅の仙台時代」 阿部兼也著、東北大学出版会、1999  

<「藤野先生」が収録されている本>
「阿Q正伝・藤野先生」(講談社文藝文庫)、「朝花夕拾」(岩波文庫)、「阿Q正伝」(角川文庫)、「阿Q正伝・故郷」(偕成社文庫)
 

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