東二ノ丸広場について

最終更新日 2024年3月15日ページID 055255

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 県では、「県都グランドデザイン」に掲げるプロジェクト「福井城址の魅力向上」を進め、城址を「歴史に触れ、学びを深める空間」、「人が集う、開かれた憩いの空間」として活用するため、かつての福井城東二ノ丸に、城址の石垣とお堀を望む視点場として、東二ノ丸広場を整備しました。福井城址にお越しの際にはぜひお立ち寄りください 。
 

東二ノ丸広場の整備内容

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面積:約2,600㎡(芝生広場・カラー舗装広場)

●福井城百間堀の石垣展示・笏谷石製のベンチ
 福井城の石垣には、足羽山で採掘されていた笏谷石(しゃくだにいし)が使われています。福井駅西口地下駐車場工事の際に出土した石垣を展示するとともに、ベンチに加工して設置しています。

●笏谷石床石広場
 笏谷石の床石を広場に敷き詰めています。

●歴史案内板
 東二ノ丸・東三ノ丸の歴史を紹介しています。案内板の土台には笏谷石を使用しています。

●マクラギ
 えちぜん鉄道で使われていたマクラギの廃材を再利用し、芝生広場の一部に設置しています。福井城がかつて68万石あったことにちなみ、マクラギは68本使用しています。

●樹木、生垣
 お城やお堀になじみのある、シダレザクラ、シダレヤナギ、シダレモミジ、クロマツのほか、秋に赤い花が咲くベニカナメモチの生垣を配置しています。
 

東二ノ丸・東三ノ丸について

 東二ノ丸広場は、福井城の東二ノ丸に位置し、石垣とお堀を望む視点場として整備を行いました。東二ノ丸や東三ノ丸の藩政時代以降の歴史を紹介します。

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歴史案内板

藩政時代

 福井城(北庄城)は、本丸を中心に周囲を二ノ丸・三ノ丸で囲み、四重五重に水堀をめぐらした環郭式の平城です。徳川家康の次男で初代福井藩主の結城秀康が慶長6年(1601)から慶長11 年(1606) にかけて大修築しました。
 東二ノ丸には作事所(普請や修繕を担当する役所)がありましたが、のちに西三ノ丸の西側に移転しました。東三ノ丸には武家屋敷が立ち並んでいました。なお、東二ノ丸には切手門があり、門を通過する武士は駕籠や馬から降りなければなりませんでした。

明道館

 安政2年(1855)、東三ノ丸に16 代藩主の松平春嶽(慶永)が藩校「明道館」を創設しました。橋本左内を「学監同様心得」に任じるとともに、熊本から儒学者の横井小楠を招き、明道館は藩士教育の中心機関として優れた人材を輩出していきました。なお、横井小楠は明道館付近の武家屋敷に安政5年(1858) から文久元年(1861) まで住んでいました。
 明道館は文久3年(1863) に東三ノ丸北側の堀を隔てた八軒町に移転し、翌元治元年(1864) には17 代藩主茂昭と前藩主春嶽の住居「御座所」が西三ノ丸(現在の中央公園)から移転してきました。なお、明道館は移転を重ね、版籍奉還がなされた明治2年(1869) には「明新館」と改称され、後の旧制福井中学校、現在の県立藤島高等学校に至ります。

松平試農場

 明治26 年(1893)、本丸、東二ノ丸、東三ノ丸に越前松平家18 代当主の松平康荘が松平試農場を創設しました。
 開拓された旧城地の耕地面積は約5町(5ha) で、明治31 年(1898) の資料によると、東三ノ丸では、黍・粟・茄子・胡瓜・玉蜀黍・西瓜・落花生・苺・苹果・綿などが栽培されていました。また、場内には伝習所や生徒の寄宿舎もあり、福井の農産業振興の重要拠点となっていました。
 松平試農場は大正10 年(1921) に坂井郡細呂木村(現あわら市)に移転したのち、昭和31 年(1956) に閉場するまで農産物の栽培・研究が行われていました。

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