ふくいの足跡マップ③回向院
回向院(小塚原回向院) /荒川区南千住5-33-13/JR・東京メトロ・南千住駅 | |
もともとこの一帯は江戸幕府初期のお仕置き場として知られ、小塚原と呼ばれていた。1667年(寛文7)に本所回向院住職・第誉義観上人が幕府に願い出て、その別院として小塚原刑場に建てたのが、この小塚原回向院。磔地場として開創されてから220余年の間に、20余万人のもの人々が埋葬されたといわれている。安政の大獄で獄死した吉田松陰(後に世田谷区松陰神社に改葬)、福井藩士・橋本左内、小浜藩士・梅田雲浜の墓所がある。また、杉田玄白、前野良沢らが「解体新書」を翻訳するきっかけとなった腑分けが行われた地としても有名であり、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられている。
【橋本左内(1834-1859)】 福井藩士の外科医、橋本長綱の子として生まれる。1949年、16才で適塾・緒方洪庵に師事し、蘭方医学を学んだ後、水戸藩・藤田東湖、薩摩藩・西郷隆盛と交遊。越前藩主・松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。1857年(安政4)以降、由利公正らと幕政改革に参加。1859年(安政6)、安政の大獄で獄死。 【梅田雲浜(1815-1859)】 幕末期の儒学者。小浜藩士、矢部義比の次男として生まれ、藩校・順造館で学んだ。1830年、藩の儒学者から山崎闇斎学を学び、その後、祖父の家系である梅田家を継いだ。1943年には京都に上京し、藩の塾である望楠軒の講師となったが、1952年、藩主・酒井忠義に建議したことが怒りに触れ藩籍を剥奪される。翌年のペリー来航後、条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて、尊王攘夷を求める志士たちの精神的なリーダーとなった。1859年(安政6)、安政の大獄で獄死。 【杉田玄白(1733-1817)】 小浜藩の医者の子として江戸で生まれる。18才で幕府の医者に師事し漢学、西洋医学を学ぶ。小浜藩医をしているときに「ターヘル・アナトミア(オランダ語の医学書)」と出会う。1771年(明和8年)の骨ヶ原(小塚原)の腑分けをきっかけに、前野良沢らと約3年半の月日をかけ、1774年(安永3)、同書の翻訳本「解体新書」を発刊。 |
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