福井県高等学校長協会での講話

最終更新日 2010年2月4日ページID 009593

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 このページは、平成21年9月2日(水)にユアーズホテルフクイで行われた、福井県高等学校長協会平成21年度「知事と語る会」での知事講話をまとめたものです。

210902講演写真1 お話をする機会をいただきましてありがとうございます。
 甲子園では敦賀気比高校が残念なことに1回戦で敗れましたが、インターハイでは若狭高校ボート部、仁愛女子高校テニス部が全国優勝を果たしてくれました。選手の皆さんにもお会いしましたが、大変元気に頑張っておられ、他の生徒にも励みになると思います。また、文化・教育面でも大きな成果を挙げています。例えば、高志高校の高ヶ内さんがNHKの放送コンテストの朗読部門で優勝、藤島高校の寺尾君が全国物理コンテストで金賞を受賞しています。
 また、6月7日の一乗谷朝倉遺跡での全国植樹祭では、藤島高校、若狭東高校、北陸高校、仁愛女子高校の生徒4人に司会をしていただきました。植樹祭は60回目ですが、高校生が司会を務めるというのは初めてのことです。リハーサルの時は大変だなと思いましたが、良い思い出になったのではないかと思います。その他、植樹祭での様々なイベントでも生徒の皆さんにはご参加をいただきました。
 そのほか、福井商業高校のチアリーダーが全米選手権大会で優勝、若狭東高校の放送部が全国高校総合文化祭で最優秀賞を受賞、科学技術高校が全国ソーラーラジコンカーコンテストで優勝するなどしています。どうか校長には、勉学、部活動、そして人生経験の応援をして欲しいと思います。
 それから、総選挙が終わりまして、教育制度もかなり見直されるかもしれません。十分注意しながら教育現場をしっかり守ってください。現在の民主党のマニフェストでは、出産一時金の拡充、中学校卒業まで1人当たり月26,000円の「子ども手当」の創設、公立高校授業料の無償化と私立高校生への助成拡大があります。これだけ見ると決して悪いことではありませんし、歓迎すべきことかもしれません。果たして財源が確保できるのかが心配です。教育委員会制度の見直し、これは重大な問題であります。教員免許更新制度を見直すと同時に養成課程を6年制に変更とあります。これも良いところと、注意しなければならないところがありましょう。福井県は先進県として、よく見極めながら教育行政を進める必要があります。

  さて、8月末に小・中学生の3回目の学力テストの結果が公表されました。特に中学生が平均学力で全国第1位ということですから、それぞれの高校では、全国一学力の高い中学生を高校に迎えているということになります。ですから高校としてこれからどんなふうにやっていくのかということが大切です。一方で、学力面で、義務教育は頑張っているが、高校になるとどうなのだろうという声が聞かれます。まず、高校生の学力を詳しく分析するため、大学入試センター試験について、どの程度の水準かということを把握しておく必要があります。また、高等学校の再編とか学科の見直しがありますが、これからの時代にふさわしいシステムなり水準を皆さんのご意見をいただきながら形作っていって、福井県の高等学校の学力もしかるべき水準である、ということを証明することが校長の目標かなと思っております。
 現在の経済状況は大変厳しいものがあります。来春の高校卒業予定者に対する求人倍率は、7月末現在で0.90倍と、昨年同期と比べると0.33ポイントも低下しています。県ではこうした情勢に対応して、今年度の当初予算で高校生の就職緊急支援事業をつくり、求人確保・就職促進のための対策を強化しています。また、6月補正予算において、19人の就職支援コーディネーターをブロック毎に2~5人配置し、学校の応援をしています。さらに、9月補正予算では、来春卒業予定の高校生向け就職面接会を10月にも嶺北・嶺南で1回ずつ臨時に開催したい。校長の立場で、職業系の学校を中心に気をつけて活動していただき、また我々にもここが不便だとか、ここをこうして欲しいとか、早目に言って欲しい。子どもたちにとっては一生に一度のことでありますから、そのことをしっかり頭に入れてお取組み願います。以上は最近の状況であります。

 先ほどご紹介いただきましたが、「『ふるさと』の発想―地方の力を活かす」という岩波新書の本を早速ご購入いただいたことに深くお礼を申し上げます。また、これから購入されるという方には、「はじめに」と「おわり」を最初に読まれれば内容を把握できるようになっておりまして、真ん中には別の様々なことが書いてあります。国土政策、三位一体改革、最近の社会状況、その中でふるさとが何であるか、これからのふるさとのプロジェクトをどんなふうに進めるのかと、これには内向きと外向きがありますが、そのようなことが書いてありますのでお読みください。
 また、この本には福井県のあらゆる話が殆ど全て入っております。写真も福井県の全市町が何らかの形で入っております。それから全国の自治体関係者にも読んでほしいものですから、47都道府県のことも何らかの形で入れてあります。入れてあるというのは名前だけのものもありますが、いい意味で入っているようになっています。例えば、出生率が高いとか、学力が高いとか、昔頑張ったとか、昔地租をたくさん納めた地域だとか。自分の住んでいるところの記述があれば、興味を示されるのではないかと思い、47都道府県すべてどこかに書いてあるということです。探すと出てきますので、そういうつもりでご友人にお勧め願いたいと思っております。
 ここで本当は教育の話をしないといけないのですが、その本を読まれる際の参考になるかと思い、ちょっとフリーでお話ができればと思っております。
 この本の基本的な発想の背景には次のようなことがあります。全国のマスコミ、メディア、あるいは都会の人の話を聞いていると、彼らの意識の中には、都市部の人が福井など田舎の、いわゆる疲弊した地方の面倒を見ているといった思いがあるような気がします。地方交付税あるいは義務教育の国庫負担等、これらはどこの地域にも同じように配分されているはずなのですが。それから、今の日本はおかしい、どうなっているんだと選挙でもみんな言っていました。そこまでは正しいのですが、それからが良くない。何か地方は変だと、人や車が走らない道路を作っているとか、新幹線というのは北陸の方を走るような走らないような感じだとか、田舎にはほとんど生徒がいないのに先生はいるのではないかとかですね、そういうものの見方をします。ずっと向こうにぼんやり見える地方がおかしいから、あそこを直さなければならないという、そういう発想をしているように思います。その割には都会の人は自分の足元を見ていませんね。学力が低いとか、不登校が多いとか、税金を納める率が低いとか、あるいは投票率が低いとか。
 それはさておき、大都市からみて地方をなんとかしないといけない、このような発想を是非考え直して欲しい。ふるさとから、地方からものを見なければいけないだろうということを書きたいと思ったのです。それが、この本の根っこにある部分でありまして、大都市からものを見てはいけないだろうということであります。特に、教育を例に取りますと、0歳から18歳まで、すなわち生まれてから高校を卒業するまでに、だいたいで一人当たり1800万円のお金が要るのです。そして、大学に合格して福井を去るのです。大都市の人には、単に大学に合格して都会で勉強しているんだなとか、あるいは勤めているんだなと、そういう感じしか受けていないと思います。
 この本には、集団就職の頃の話もふるさとの例として書いてあります。あの頃は、確か金の卵と言いました。集団就職の子どもたちです。彼らは遠くから列車に乗って、上野駅にやって来ました。ところが、センター試験や二次試験で東京にやって来て、そのまま大学に行って勤めていたら金の卵には見えないんです。集団で来ませんし、そういう雰囲気もなく、システム化されていますので、見えないのは当たり前だと思います。当然、田舎から人が集まるんだ、優秀な、学力日本一の福井県や秋田県の子どもが集まるんだと思ってもいないという感じです。当たり前だと思っているから何も気にしない。地方にお世話になっているとか、応援してもらっているとか思わない。原子力だってそうです。福島でも、新潟でも、東京に電力を送っています。福井も送っています。関西の7割の水は滋賀県の琵琶湖の水であります。そういうことが分かっていない。お米もそうですが昔は米穀台帳というのがありましたので、こういうことがよく見えたのです。私は京都の大学へ進みまして寮に4年間いましたが、手ぶらでは行けませんでした。何故かというと、お米の台帳を持っていかないと、ご飯が食べられなかったのです。ちゃんと米穀台帳を寮に示さないと頭数に入れてもらえなかった。今はそういうふうに目に見えるものがありませんので、大都市に自然に人が集まって、職場を提供して、食わせていると思われている。挙句の果ては、極端にいうと、地方というのは年寄りや、よく働かない人ばかりなので交付税を配らなければならないのか、という間違った発想があると思っています。そういうことを何とか分かって欲しいし、互いに助け合っているんだということを述べたいということで、この本を書いたわけであります。
 それからもうひとつ、教育に関わることでもあります。最近では「地方」よりも「地域」という言葉がよく使われるようになっています。例えば、地域で学力が高いのは、生徒が頑張っているからだと、先生が頑張っているからだと、さらに地域でみんなが支えあっているからだというふうに地域という言葉を使いますね。それから、道州制などでも地域という言葉を使いますね。地域主権型道州制ってどういう地域だろうと思いますか?何か関西全体を地域と呼んでいるようですね。そういう曖昧な意味合いで使われる地域とか地方という言葉はありますが、この言葉を使っている間は、世の中は良くならないのではないかとの思いもあり、それに変わる「ふるさと」という言葉をみんなで使えないかなということでこういう題にしてあるのです。
 「ふるさと」と地方や地域、何が違うのかということになります。みなさんが教育をするときに、地方教育とか、あるいは地域教育とか、こういう言い方はしないですね。言っても悪くないのでしょうが、なぜか言わないですよね。ところが、「ふるさと教育」というと何か「こういうことをするんだろうな」というイメージが湧いてきます。例えば由利公正や橋本左内の話になると思うんです。だから「ふるさと」というのは、地方とか地域が持つ意味とは違うと思います。福井県という歴史や伝統、そしてそこに人がいて、長い時間の積み重ね、愛郷心、そういうものがベースになっている。ですから、そういうものをベースにした「ふるさと教育」や地域づくりというものができるのではないかということを書いたわけです。
 では「ふるさと」というのはどういうものなのかを、戦後の動きで申し上げます。明治以来、高度成長直前までは石川啄木流の「ふるさと」ですね、「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」という岩手県、あるいは福井県の越前町とかですね、自分のふるさというノスタルジー、あそこに帰らなきゃいけない、お母さんが、妹がいて、みんなどうしているだろうというものが高度成長までの「ふるさと」だと思います。「ああ上野駅」もそうですね。そういうものが今でも根っこにないわけではなく、最下層にそういう意識があると思います。
 次は山口百恵流です。「日本のどこかに」というふうに変わってきたのです。ということは、空の上から眺めているといいますか、反省的といいましょうか、客観的にふるさとが「あなたにもあるでしょう」「わたしにもあるんですよ」、みんなも「ふるさと」を持っているという、そういう「ふるさと」に転換をしてきたのが第二段階かと思います。高度成長がかなり進展した頃でしょうか。美浜町出身の五木さんの「ふるさと」もそうでしょうか。あの歌には「誰にもふるさとがある」とあり、よく似ているのです。ですから井沢八郎、春日八郎とか、石川啄木の「ふるさと」観とはちょっと違う。一種、商品化されてきています。ふるさとは特定性を失い、誰にでもどこかにあるものに変容しました。
 そして、高度成長も終わり、失われた十年も終わり、そしてリーマン・ショックも起き、いろいろありましたが、今まさに第3段階の「ふるさと」を考えだす必要があります。途中2番目と3番目の間に寅さんが出てきます。フーテンの寅さんですね。2.5世代といいますか、山口百恵より新しいが私のより古いふるさと、そんなふうに思っております。フーテンの寅さんはどこにでも行くんですね。自分の「ふるさと」がどこでもないという感じです。寅さんの「ふるさと」というのはちょっと違いますね。葛飾柴又ということですから田舎でもないです。すぐ自分のところに行ったりあっちに行ったりしますね。そして絶えず女性がいるから、それぞれのふるさとに対してあまり心をこめている様子ではないという、そういう感じがします。私はこれを2.5世代という風に分析しています。社会学的には違うところもあるかもしれませんし、寅さんの本当の気持ちは違うかもしれません。しかし、一応そのように仮説を立ててみたということです。
 次に新しい「ふるさと」というのは、一体どんなものだろうということを申し上げたいと思います。これは教育に関係します。
 教育というのは、極端に言うと直接に世界市民を教育するわけでは決してありません。日本人を教育しなければならないのです。より具体的には福井人の教育をしないといけないと思うべきです。いやそんなものは狭いからおかしい、グローバルな英語をしゃべって、みんなで仲良くする、そういう世界市民をつくるのだということは、必ずしも正しくはありません。そんな無性格な教育は存在しないと思います。やはり根っこに「ふるさと」、福井、日本、そして場合によっては世界のことも考えるということではないでしょうか。教育はそういうものでありますから、「ふるさと教育」というのは大事だと思います。教育委員会でも、五箇条の誓文の購入や、岡倉天心先生や南部陽一郎先生について検証しようとか、あるいは白川先生の白川文字学をどうしたらいいのだろうということを考えているのです。「ふるさと教育」というのを重視しなければならないと私は思います。
 それで新しい「ふるさと」について申し上げますと、そこには積極的、自主的に行動をするというファクターが入っています。我が「ふるさと」で活動しようとか、あるいは小浜市みたいに、名前しか似ていないんだけどそこと結びついて何かしようとか、そういう勇ましい行動力を持った「ふるさと」です。これからの新しい「ふるさと」とはそういうものです。美山町の劇団「ババーズ」のような、活動性のある主体的なもの、そういう「ふるさと」こそが、大事かと思います。
 最近個人がバラバラで、先生と生徒は毎日教室で顔を合わせているが、ちゃんと結びついているのかなと時々疑問に思いませんか。あるいは校長も、学校に先生が何十人かおられますが、関係が希薄になってきたと感じているのではないでしょうか。そういうところを何とかみんなで活動して結びつきを持ってやろうというのは、「ふるさと」みたいな発想がないと出来ないだろうと、そんなふうに思います。
 この本には「個化社会」と書いてあります。個人化、アトム化する社会ですね。みんなで結びつく。そして内に向かっては自分の学校のアイデンティティーですね。仁愛女子高校のアイデンティティーあるいは啓新高校のアイデンティティーというのをみんなで意識し、しっかり持つこと。そして他のところと、どうやって結びついていくかを考えるのが「ふるさと教育」かと思います。あるいは「ふるさと」の新しい動きですね。内に向かって自信・誇り・アイデンティティー、外に向かっては結びつきであり繋がりです。
 ふるさと納税の提唱のことも書いてあります。大都市に出て行った人が、福井の高校を卒業したので福井を応援したいというのは外からの結びつきだと思います。今東京の世田谷区に住んでいるが、世田谷区と福井市とどっちの行政がいいだろう、福井市に頑張って欲しいということで、100万円の税金の内10万円は福井に寄付するんだ、というようなことだと思います。そういうきっかけが大事です。完全にはカバーできませんが、そういう発想を書きました。
 話をまた教育に戻しますが、是非、高校、小・中学校が一体になって、それぞれが結びつき、平均力を上げてほしい。突発力というものもあります。甲子園で優勝するのは突発力でありますが、平生からの力があるというのは平均力です。福井県の場合、平均力は割合高いですから、これを高校でも上げてほしい。今度、教育委員会で福井県の平均力を上げるための研究組織も作られるということも聞いていますので、頑張って欲しいと思います。
 最後にせっかくですから気分転換の意味で、遠い昔のローマ史についてお話をします。私も初めて読んだのですが、モムゼンという人の書いた本についてです。最後の第4巻にシーザーというところがあります。モムゼンというのはドイツの歴史家で、ローマ史の専門家です。しかし、世界史の教科書には出てこないのではないでしょうか。ギボンという人は出てきます。「ローマ帝国衰亡史」を書いた人です。ギボンは、ローマの帝国ができて没落するまでの歴史を書いています。ところがモムゼンの場合、シーザーの帝国のところで終わるのです。何故シーザーのところで終わったのかということですが、難しくて後が書けなかったのではないかという説があります。ところでモムゼンという人は、世界史の教科書に出てくるトルストイと共通性があります。この二人、第2回のノーベル文学賞を争ったのですが、どちらが受賞したと思います?モムゼンです。モムゼンは歴史家ですので、歴史家が何故文学賞なのかというのもおかしいですが、国際競争があったのでしょう。そういう人が書いた本ですから読むとなかなか良いですよ。退屈で眠たくなりますけど重厚です。
 この本には政治をやるときに参考になることが書いてあります。どんな小さな組織であっても、そこに生きる人々を有機的に結びつける何かがあれば、組織は限りなく発展できるということが書いてあります。だからシーザーがつくったローマ帝国というのは、非常に大それた組織ですが、「ふるさと」みたいな精神がないから死んだも同然であった、そういうことが書いてあります。ここが言いたいところで、死んだも同然の学校をつくってもいけませんし、死んだも同然の福井県をつくってもいけない。そういった精神、行動が大事だと思います。
 もう一つ関連して、ギリシア・ローマ以来三千年くらいの間に、世界史上でどの事件が一番重要だったと思いますか?ギリシア・ローマ以来の出来事の中で、シーザーがローマ帝国の皇帝になったことが重要だとは思いませんよね。私は、フランス革命かとも思ったのですが、よく似たことはアメリカでも起こりましたし、多少ラジカルではないけれどイギリスでもありましたので、影響力が小さいのです。アメリカ大陸発見もありました。しかし、正しいかどうかは知りませんが、一番重要なのはコンスタンティヌス帝、このローマ皇帝がキリスト教を公認したことが世界史的な大事件かと、こんなふうに最近私は思っているのです。というのは、その頃のローマ帝国は死んだも同然の状態で、全く悲惨というか、いつ命がなくなるか知れない、何の救いも無いという状態だったのです。
 4世紀当時、ローマ帝国にキリスト教を公認する時、ローマ帝国内にキリスト教徒は何割くらいいたと思いますか? いろいろ学説がありまして、5分の1から20分の1まであるんですが、一般的な学説は10分の1くらい、1割です。だから最近の選挙に例えると、キリスト教の支持率は1割です。1割しかキリスト教徒がいなかったのですが、コンスタンティヌス帝という人はこれを公認したのです。これは一体何故だろうということです。
 世界史を例にとりますと、教科書にはコンスタンティヌス帝はミラノ勅令を発令し、その後キリスト教を容認したと書いてあるだけです。そこにどういう意味があったのかということにまで踏み込んで教えてもらえるかどうか、これが福井県の教育の水準を高めることにつながると思います。これはどういう意味かということを、表面的ではなくて「あーそうか」と生徒が納得する教え方を是非して欲しいと思って申し上げます。
 支持率が1割しかないものをなぜ公認したのかということです。キリスト教徒というのはその十年くらい前までは大迫害を受けていました。それが突然公認を受けるのです。それ以来千数百年間、それこそフランス革命まで、ずっとキリスト教の世界ですから、ものすごく影響力があったのです。だからその事件の意味が一番大事で、そういうことを教えて欲しいと思いました。210902講演写真2
 答えを言いますと、世界史の教科書には決して書いてありませんが、政治家としてキリスト教がこれからローマ帝国を支えていく精神だということを予感したと書いてあります。1割のキリスト教がこれからのローマ帝国を支える人たちであるという予感がした。彼の力を仲介してしかローマ帝国の統治は出来ない、と彼は考えたのではないかということです。ですからコンスタンティヌス帝は全くの無宗教の人であって、彼自身がキリスト教を良い宗教だと信じていたわけではないのです。8世紀に聖武天皇が仏教は良いから日本の宗教にしようというのとは全然違うわけです。
 最後に「希望」についてお話します。福井県の小・中学生の希望はあまり高くなく全国平均以下です。学力は高いけれども、希望を持っているかという点は低いのです。高校生はどうでしょうか。もっと低いかも知れませんから、希望をもっと持ってもらうような教育をお願いします。これは行動に関わります。「Wish」だけではいけません。「Ambition」と言った方が良いです。「Hope by action」、行動によって希望が叶えられると思います。これは「Ambition」です。「大志」と言いますが、あれは明治調ですから、本当は「行動を伴った希望」を持って実行する生徒を生み出すのが高校教育かと思います。


 以上で講話を終わります。

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