福井県立大学知事特別講義 「『ふるさと』の発想で地方に活力を」

最終更新日 2010年2月4日ページID 010114

印刷

 このページは、平成21年10月26日(月)に福井県立大学で行われた知事特別講義をまとめたものです。

211026講演写真1 学生の皆さん、おはようございます。
 私は最近「ふるさとの発想-地方の力を活かす」という本を岩波新書から出版しました。すでに購入していただき、読んでもらった方もいると思います。今日の話を聞いていただき、ああこういう考えで書いてあるのだと思ってください。
 皆さんは経済学を専攻していますね?ですからケインズのことを多少は習われているかと思います。本を書くに当たり、ケインズの「一般理論」の書き方を参考にしました。というのは、ケインズは論文を書くときに、常識的なカテゴリーというか単語でまず表現をします。私もそれに倣って、まず地方や地域という言葉を使って、福井県の様子や全国の仕組みなどを紹介しています。途中からこうした地方や地域という言葉を使わずに、「ふるさと」という言葉を使って解説をしています。
 常識的な言葉でまず書きながら、突然この言葉は止めると言うのですね。こういう新しい観念を入れますよと。そういうことで私は彼に倣って、途中から「ふるさと」という概念を使って本を書きました。そういう観点で読んで欲しいと思います。
 皆さんも卒業論文を書くと思いますが、あることを書くときにあまり最初から難しい言葉を使って書くと現実離れしますし、とっかかりが悪くて文章が書き辛くなります。まず普通の言葉を使って書きながら、いざという時に、ここからはこういう言葉を使いますよと言えば書き易いのかと思います。

 それでは、今日は話を二つの部分に分けまして、最初は世の中の動きを話し、後半はふるさととか地方自治、地方財政について話をします。
 今日は一年生の皆さんが中心と伺っています。皆さんはこの大学に4月7日に入学しましたね。その時私はこんなことを皆さんに申し上げたと思います。
 一つは、最近、グローバリゼーションが進み、経済においても地球温暖化問題においてもさまざまな問題が発生していますが、皆さんには現実の社会の問題を正しく認識して、解決していく能力を身につけていってほしいということ。
 二つ目は、せっかく福井県で勉強するのだから、福井県の「ふるさと」としての良さをできるだけ味わって欲しいということ。
 私は10日ほど前に、ドイツとフランスを訪問しました。それぞれの町を一泊ずつしましたが、どこの町に行っても通訳をしてくれる人がいました。すべて女性です。そして日本人です。いずれもドイツ人と結婚しておられます。通訳の皆さんがおっしゃるにはドイツもいいけれど、やはり日本がいいと。
 それはなぜかと聞きましたところ、一つは毎日食べる食べ物がとてもおいしいということ。もう一つは、四季がはっきりしているということですね、春夏秋冬として、湿り気もあり、雪も降る、夏は暑い、スキーもできる、海水浴ができる、秋はきれいな紅葉を見ることができる。これは日本にしかないということです。私が参りましたときには、朝夕は3℃か4℃くらいですので、福井でいえば雪が降るくらいです。そういう気候の中、彼女たちはふるさと日本の良さというのを感じながら、結婚もし、現地で子育てをしながら頑張っておられます。
 それからもうひとつ感じましたことは、これはドイツの話ですが、ドイツには徴兵制があります。ちょうど皆さんの年齢だと思いますが、ドイツでは一年弱、兵隊の訓練を受けなければなりません。もちろんその苦しさということもありますが、その間学業などが中断をするわけです。皆さんにはそういうことはありません。
 したがって、ドイツの大学は4年間では専門的なことが身につかないので、6年あるいは8年間勉強し、社会に出るのが30歳近くになるのだと、日本人の女性の方がおっしゃっていました。国ごとに経済や社会、政治を比較するときに、表面だけではなくて、実際中身も違うのだということを念頭において論じなくてはならないと思います。
 それから、日本の政治で消費税をどうしたらいいのか、財政をどうしたらいいのかといろいろな議論があります。福祉と負担をどんな割合にするのかというのは皆さんが学んでいる経済学とか財政学の大きな問題です。北欧型の高福祉高負担にするのか、あるいはドイツのように中福祉中負担にするのか、アメリカのように低福祉低負担にするのかと、いろいろな比較などを行うことがあると思いますが、それは表面的なことであって、実際その国がどういう社会構造を持ち、どんな水準であるか、どういうシステムを持っているのか分からなければ、単純に北欧型が良いとか、ドイツ型が良いと言ったりしても始まらないと思います。
 また、環境の問題をいろいろ勉強しようとして、ドイツのザクセン=アンハルト州、ポーランドに近い旧東ドイツの州に行きました。そこで州の環境を担当する職員の方に案内してもらいました。もちろん環境のことも聞いたのですが、いろいろ車中で雑談もしました。通訳も交えているので正確ではないかもしれませんが、仕事以外に何をしているのですかと聞いたら、数年前まで村長をやっていたと。田舎の村長でなく、都市の郊外の村長をやっていたそうです。実際、2千数百人ほどいる村の村長を7年間やっていたらしいですが、日本では考えられないことです。
 日本で、県の職員が、どこかの町村、例えば永平寺町の町長をすることは考えられません。「そんなことが可能ですか?」と聞いたら「そういう制度だ」ということで、給料はもらわないという話でした。
 これは地方財政とか地方自治についてドイツを基に論ずる前に、そういうことがあるということを前提にしないで頭だけで認識していると具合が悪いですね。
 「今はそういう地方自治の仕事をしていないのですか?」と聞くと、村の議員をやっているとのこと、「それはボランティアですか?」と聞くと「ボランティア」ということでした。「それだけですか?」と聞くと「県の議員もやっている」とおっしゃっていました。2つ議員をやっていると大変ですね、という話をしまして、実に不思議に思いました。「どっちの方がおもしろいですか?やりがいがありますか?」と聞きましたら、「村の議員の方がやりがいがある。地元のことをやるのだから」とおっしゃっていました。
 日本では知事が村会議員をやったりすることは絶対ありません。はっきり分かれています。国会議員が県会議員をやったりすることもありません。
 ですから、これは共通の話題ですが、制度でもシステムでも、それを学問的に論ずる場合、特に外国についてはずいぶん違います。これを外国ではなくて、日本の国内あるいはそれぞれの地域に当てはめる場合に、皆さんが頭の中で思っていることを当てはめては駄目なのです。それは、本当は合わないのだということを実感として感じられてから、これはこうなのだという論じ方をしなければ、正しい結論なり、本当に現実を把握していることにはなりません。所変われば品変わると、さまざまな違いがあるということをまず冒頭に申し上げます。
 是非皆さんには、フィールドと申しますか、現場ですね、福井というふるさとの現場を、ボランティアでも結構ですし、あるいはアルバイトでも構いませんし、現実を踏まえながら、これを理論化することを考えてほしいと思います。
 更に、もう一回脱線してしまいますが、ドイツのハンブルクという町にも行き、大学生とお話しました。ハンブルクは世界史で言うと、ハンザ同盟の中心都市であり、ベルリンに次いで大きな人口100万人くらいの町です。
 ルフトハンザという飛行機がありましたが、あのハンザです。朝早く、ちょうど今頃の時間ですが、大学へ行ったらちょうどこれくらいの教室でオリエンテーションをやっていて、その風景を見ていました。
 そこに東洋学部といって、言葉は正確ではありませんが、東洋のことを研究する学部がありました。その中に日本学科というのがあり、学生が20人ほどいましたが、皆ある程度日本語を話すことができました。福井大学にも勉強に数人来られていましたし、逆に、福井大学からハンブルク大学に何人か留学しているようです。県立大学でもこういった交流をしてもらえると良いと思います。ハンブルク大学の学生数はだいたい4万人くらいで、キャンパスがすごく狭いのでここだけではないのでしょうねと言いましたら、キャンパスが市内に百以上に分かれているということでした。
 東洋学部というのは非常に伝統のある人文系の学部で、ノーベル賞などをお取りになっている学者も多いのでしょうね、と聞きますと、何人か受賞しているということでした。
 そこで、ハンブルク大学の学生といろいろと話をしたのですが、日本語の勉強ですので、担当の先生も日本語に詳しいのです。日本の中世の徒然草など難しい説話を研究しておりまして、私を紹介するときに、松尾芭蕉の奥の細道の最後の場面の北陸の福井から来た人だと、そして汐越の松がある三国の東尋坊がとおっしゃる先生でした。
 かなり準備もされたのだと思いますが、外国でそのようなことをずいぶん勉強しているのだと感じました。そして、彼らに是非日本にまた来て欲しい、日本で勉強するなら福井にいろんな大学があるから福井に来てほしいと話をしました。
 ついでに、今、私はあまりしていないのですが、俳句のことを話して、俳句というのはおもしろいから勉強になりますよと申しました。皆さんは俳句をしますか?ふるさとの発想には俳句は書いてありませんが、橘曙覧とか正岡子規とか永平寺の道元禅師とか、4つか5つの和歌を書きました。何故ふるさとの発想に俳句が出てこないかと申しますと、俳句は使うのに不適当なのです。俳句というのは、あまり説明をしない文学です。俳句はすぐ終わってしまうのですが、できるだけ動詞を使わないのが俳句です。和歌になりますと、できるだけ動詞を使うというとおかしいのですが、説明をしなければなりません。たとえば、「逢い見ての後の心に比ぶれば昔は物も思はざりけり」といいますね。和歌にはたくさん動詞があります。しかし俳句はほとんど動詞を使わないで、名詞で説明をする。動詞が2つあったりすると、俳句としてはよくありません。それで、日本語を勉強するときには、まず単語、それは名詞でしょうから、俳句を勉強すると名詞を覚えるということで、日本語の勉強の入口には俳句がいいですよと申し上げたのです。「ふるさとの発想」の中で俳句を書きますと、説明がないから、何かを文章にするときに使いにくいということです。
 それと、これもついでに申し上げたいことですが、いろいろな論文を書くときに、ある論理を、AはBである、なぜならXはYだからと、こういう論理を展開しなければなりません。ふるさとは大事である。なぜなら・・・ということを書かなければなりません。
 これからまた次の論理にいかなければなりません。しかし、我々の頭にある論理というのは、すべてきれいな筋道では決して論じられません。飛躍というかちょっとすき間の部分がどうしても出てきます。ケインズの論文は、全部論理では決して書いてないと思います。
 間のところに論理でないものを入れないと、全体の論文を書くときにつながらない。ここに歌を入れて、話をつなげるというやり方を「ふるさとの発想」ではとっています。
 大体論理というものはそういうものだと思います。つまり、あることを論じて、いつでもそうですが、マニュフェストはこうだと、だからこうだと飛躍があって、ここに感情とかエモーションという、あまり論理ではないものがどうしても入ってきますので、こういう組み合わせで文章を書いていかなければAからXまでたどりつけない。そこで、ここに時々歌を入れました。
 ハンブルク大学の話に戻ると、日本語を勉強していただく前にまず俳句とか単語を勉強していただくといいと、そんな話をして、いま福井に戻ったということです。
 それから、最後に皆さんの学問の話になりますが、経済学の中でいろいろ議論するときに、一定の形式というものを使わないとなかなか論じにくいと思います。現場でいろんな研究をし、現実を並べたときに、それをそのまま福井県の農業はあそこで何をしているとか、お米がどうだとかいう調査データはありますが、形式で論じなければ、論文なり、あるいは試験の答えにはならないと思います。一定のスタイルを設けて論ずるということが重要だと思います。これはまた、先ほどの俳句に通じまして、一定のシンボルとか形式をもって物事を論じているということが非常に大事だと思っています。話が難しくなったので、この話はこの辺でやめようと思います。
 それで、ハンブルク大学でそんな話を、俳句は名詞を使い動詞を使わない、あるいは副詞を使わない、形容詞、つまりきれいだとか美しいとか使わない、ものを並べて美しさを感じさせるのだと、シンボルの形式を使うのが俳句だと、シンボルの哲学でカッシーラという有名な学者がいらっしゃったと言ったところ、カッシーラはハンブルク大学で学長をした学者ですと学生に言われ、なかなか偶然というのはおもしろいと感じました。

 ふるさとの話に戻りますが、ふるさとのことを福井というフィールドで十分勉強してほしい、それを皆さんは学問なり実績の糧にしてほしいと思っています。
 今、フィールドの話をしましたが、福井県ではいくつかの大学と福井県を舞台に経済学といいましょうか、社会学的な分野で研究をしております。一つは希望学です。これは、経済学はだいたい需要、何がどういう費用をもって如何に効率的に無駄なく欲求を満たすかという学問の追求だと思いますが、その前提としての心の問題といいますか、心情問題を扱うものです。政治的には何をなすべきかということの前提として、県民に希望はあるのか、将来に希望を持てるか、あるいは地域に希望を持てるかというそういう分野を探求しようという考えです。
 アダム・スミスという方は、最近新自由主義でいろんなことを言われますが、彼の国富論の大本には、人々の心というものがどういうものであるかという心情を研究した学問がまず前提にあります。その大本の部分ですね、福井県の子どもたちが、あるいは年配の方が、福井で誇りをもって希望を持ってどうやって生活をできるかということを研究しています。これが福井県の場です。
 もう一つは岩手県の釜石という町です。釜石は経済的に大変ですね、釜石は鉄鋼の町でしたが、重厚長大産業が崩れて、失業率が高く、生活水準が厳しい、そういう極端な釜石。
 こういう極端な二つの場を対象に希望学を研究しています。
 今、子どもたちの話をしましたが、福井県の小中学生の学力は日本一です。それから、体力も日本一です。学力テストでは、子供達が将来に対して希望を持っているかというのも聞いております。学力テストというのは正しくは学力・学習状況調査ということで、テストであると同時にアンケートもとっています。これは子どもたちにもとっているし、先生にもとっています。その中で、福井県の子どもたちに「あなたは将来に希望を抱いているか?」という趣旨の質問をしました。福井県の子どもたちは、学力はナンバーワンですが、希望はあまり高くありません。30~40位くらいだと思います。希望が高くないというのは気になります。生活も豊かだし、学力も体力もあるから、あまり気にならないのだという見方もありますが、必ずしもそうではないかもしれません。ですから、子供たちがいかに希望をもつようにするにはどうしたらよいかということを研究しようと思っています。
 地方自治を考える場合、特に大学との連携、地元の大学と連携していかにその地域の水準を引き上げていくかが極めて重要だと思います。これはわれわれも努力しなければなりませんし、県立大学もそういう使命があると思います。ハンブルクではハンブルク大学、福井県では福井県立大学、福井大学にそういう努力をしていただくことが大事です。希望というのはかなり地域差があります。先ほど述べたドイツと日本とでは全然違います。太平洋側の南の方、鹿児島、宮崎、高知、和歌山、こういった県が希望をもっている子供の割合が高いのです。学力も高いのかというとそうでもない。そういう地域差があると思います。これはなぜだろうかというのが研究の対象になります。
 それから、もうひとつは総合長寿学です。希望学は子供の経済学に関係しますが、こちらは大人というか少子高齢化の経済学になるかもしれません。今、年金、介護、医療など、様々な対策を講じていますが、皆さんの時代になると人生90年代になるでしょう。今、皆さんは20歳台ですから90歳の話をするのは恐縮ですが、90年台まで生きる準備をしなければなりません。勉強もしていかないといけませんし、健康にも注意して自分自身を大事にしなければなりません。そういう時代ですので、単に医療だとか福祉だとか個別にやっているのでは駄目で、高い水準で総合的に長寿を自治体としても研究していくことが必要です。福井県は健康長寿の県、全国的に最も長生きをする県であります。そういう県で、みんなが自分のふるさとの地域で、健康に老いていく、あらゆる学問、科学、医学、あるいは地域学を総合して、総合的に健康長寿を進める、こういう学問を今進めています。これはまた、千葉県の柏市でも行っていますが、ここは、高度成長あるいは団塊の世代のみなさんが東京に住めなくて、サラリーマンとして郊外にベットタウンに住み、そういうところでほぼ60歳を迎えている町です。そういう人が多い。家で農業やっているわけではありません。サラリーマンのOBですから、福井県よりも課題が多いと思います。しかし、高齢化問題にどうやって取り組むか、コミュニティをどう維持するか、そういう課題を、また福井県と別の視点で違う場所で研究していると思っていただければいいと思います。
 学者によると、希望は英語で「Hope is a wish for something to come true by action」という定義のようです。Hope(希望)というのはwish(願い)であり、具体的な何かを行動によって実現しようとする願望である。一番大事なのは、総合長寿学でも同じかもしれませんが、「by action」、すなわち「行動」です。これは政治にもあてはまります。地方政治もそうです。住民のみなさんが、これから行動をとって世の中をそして地域を変えなければいけない。みんなが討論しているだけでは、福井県は良くならないし、永平寺も良くならないし、福井市もよくならないと思っています。これは言い換えると「ambitious」 です。
 去年の今頃、南部陽一郎先生がノーベル物理学賞を受賞されました。この春に南部先生にお会いして福井県の子供たちのためにメッセージ、色紙をいただきたいとお願いしました。来月は福井市内にこども歴史文化館を開館し、県の偉人を展示します。もちろん南部先生のコーナーもありますし、漢字学の白川先生のコーナーもあります。メッセージをいただきたいと申し上げましたら、「Boys and Girls Be Ambitious!」をいただきました。「Boys be ambitious!」というのはクラーク博士が言った言葉で、そこに「and Girls」が入り、福井県の子供たちが「ambitious」になって欲しいということです。「ambitious」というのは普通、明治時代にはなんか野心とか大志とか少し立身出世的な言葉でありましたが、そうではなくて本当は希望をもって行動するという意味だと思います。これは、今日お集まりの皆さんもそうであります。「Ambition」を持たないと、学問をしませんし、これからの人生90年も生きていけません。

 ちょうど皆さんが生まれたのは1990年頃だと思います。皆さんは20世紀後半に生まれ、人生90年でありますから、きっと皆さんの中には22世紀まで生きる方がおられると思います。つまり3世紀も生きることができるというすばらしい境遇にあるということです。これは必ず起こることだと思います。
 皆さんが生まれた頃は、ちょうど平成に入り、文字通り大転換の時代です。先ほどグローバルとかいろんなことを申し上げましたが、大いに世の中が変わった時期です。私は1945年生まれ、戦争が終わった年に生まれましたが、戦争が終わった年だという意識はあるのですが、実感がないのです。最近ようやく自分が生まれた年は戦争が終わって、大いに世の中が変わっていたのだなということを思っています。皆さんも東西冷戦が終結したときに生まれたのですが、このことを頭の中では分かっていても、実感がおそらくないはずです。ですから、皆さんが生まれた時代は以前と違うんだということを認識することが基本にあると思います。あらゆる生活なり勉学をする場合、それが重要かと思います。
 私が皆さんくらいの年であった昭和40年頃の日本は、経済成長率が8%か9%くらいでした。別に不思議でもなく、世の中はラジオがテレビになり、洗濯機、冷蔵庫、自動車が家庭に普及し始めました。
 社会人になってからも、私は地方自治の仕事をしておりましたから、地方に数年ごとに出たり東京に戻ったり。戻るたびに仕事をする事務機器が違うのですね。計算機、あるいはコンピューターがどんどん成長していました。皆さんはご存知ないかもしれませんが、昔は計算機もハンドルのある機関銃のようなものでした。想像がつかないと思いますが、今は骨董品でしょう。コピー機も違います。どんどん変わっていました。そういう時代ですから、それが当たり前だと思っていましたが、皆さんの時代ではこれは全然当たり前ではありません。こういう特殊な大転換の時代であると思っていただくのが大事かと思います。そうした上でさまざまな議論を進める、これが第一に皆さんに申し上げたいところです。
 経済や雇用面で申しますと、20年前は株価が3万8000円でしたが、今は9000円です。それからサラリーマンの小遣いは20年前は7万6000円でしたが、今は4万5000円ということで、半分近くになっています。こういう極端な時代の転換が行われています。大卒求人倍率は、20年前は3倍近くでしたが、今は1.6倍でその半分です。ずいぶん世の中が違うのです。そういう中での議論をして欲しいと思います。
 先ほど人生90年ということを申し上げましたが、私が生まれたころは、自分の両親は60歳くらいで亡くなるという基準でした。今ではほとんど考えられません。そして、地方自治とか地方分権という議論が極めて盛んになってきた時代です。こういう時代認識を一度よく考えていただきたい。
 そこで、最後にそういう前提の中で、国と地方、あるいは、都市と地方の関係について、先ほど述べた「ふるさとの発想」とも関連しますが、申し上げたいと思います。これは地方自治論、地方財政論、あるいは地域経済論、そのような分野の学問と関係するかもしれません。
 ですから、問題の提起は、都市と地方の関係はいかにあるべきか。私がこれからお話しますので、それを参考にふるさとの問題を考えていただきたいと思います。
 まず、問題提起の一つですが、都市と地方はどちらがどちらの面倒を見ているのだろう。正確な言葉を使うと、どちらが依存しているのか、あるいは依存していないのかという問題をお話したい。今、新聞などをご覧いただくと、基本的な見解は、都市が福井県などの田舎、こういう地域の面倒をみていると。しかし、残念ながら経済状況の悪化の中で面倒をみきれなくなっているのだという見方が多いと思います。公共事業は無駄である、新幹線はどうなる、一度原点に立って考えなければならない。それ自体は決して悪いことではないと思いますが、そういう地方を大都市が面倒をみているという発想ですね、それを考え直す。もう一回振り返って考え直してみたいというのが「ふるさとの発想」の中にあります。それが一つです。
 テレビ番組を見ますと、最近そういうバラエティ番組が多いですね。田舎らしい、面白いなあとか。東京などを中心に地方を眺めている、そういう基本的な構造ですね。パラダイムと言っていいでしょう。そういう論理あるいは思考があると思います。これを考え直すべきだと思います。これは一種の「東京バイアス」という、そういう言葉になります。今、日本をなんとかしなければならない、問題が多い、何とか直す。これは正しいのですが、ここからが問題で、だから地方をなんとかしなければならない、疲弊している、都市に頼りすぎている、自立しなければならない、という発想をぜひ変えていただきたい。むしろ、例えば永平寺町はしっかり仕事しているのだから、それを無駄のないように応援をする、そういう国の形にすべきであるというのが私の考えであります。
 一例を申し上げます。福井県には原子力発電所がありますが、関西地域の使用電力量の約半分は福井県が供給をしています。水に関しては滋賀県の琵琶湖も同じだと思います。
 最近は八ツ場ダムの話も出ていて、六つの都県の知事が八ツ場ダムを視察したという記事が載っていました。このようなことは今までなかったと思います。初めて現場を視察したということは、ダムの必要性について初めて実感として認識されたのだと思います。これはこれからの問題を考える上でとても良いことだと思います。水の問題についても、自然に出てくるものだから、料金も払っているのだから、そんなものどこから来ようが全く関心がないということですね。それはほとんど地方から来ているということを認識すべきです。つまり生活の基本にかかわるエネルギー、ライフライン、これは大体地方が都市を支えていると認識しなければなりません。ここが大事です。
 皆さんは県立大学の学食で昼ご飯を食べると思いますが、手続きは要らないですね。お金を払えばいいですね。私が学生のときは、米穀台帳というものを持っていかないとご飯を食べられませんでした。当時は食管法というのがありまして、一人ひとりお米を食べることができる台帳を大学の寮に示さないと学食で食事ができませんでした。今ではお米を自由にスーパーやコンビニなどで買えますが、私の学生の頃はそうではありませんでした。ほとんど形骸化していましたが、全部具体的な手続きがあって、田舎からちゃんとお米が来ているということが学生たちの頭の中にありました。今はないかもしれません。
 先ほどドイツの徴兵制の話をしましたが、皆さんにもそれぞれ本籍地というのがあります。ここに福井県以外の本籍地の方が半分くらいいらっしゃると思います。昔は男性は20歳になると本籍地で徴兵検査を受けました。これは、高見順という三国出身の小説家で、芥川賞を受賞された方、この方の伝記に書いてあります。田舎を離れて東京にずっと住んでいるが、十数年ぶりで田舎に帰った。徴兵検査を受けるために帰った。このことがいいと言っているわけではありませんが、このようなつながりがあったということですね。それが全然目に見えなくなって、経済学的に言うとどうでしょうか。市場の中に埋没しているということかもしれません。
 もう一つ関わるのは人材の供給です。私が学生の頃あるいはその前後、集団就職というのがまだありまして、東北などを中心に集団で上野駅にやって来ました。ピークには東京に7万人くらい一年間に来て、金の卵とマスコミが報道して、風物詩となっていました。3月頃引率されて、そういう姿がありました。それは、「金の卵」ということで、上野駅に見えますので、地方から大切な人材を中小企業を中心にいただいているのだと企業の方が思ったのです。
 ところが今はどうでしょうか。福井県から毎年東京や大阪に3000人出ていますが、戻ってくるのはたった1000人です。戻ってこない2000人、彼らのことを金の卵とは言いません。しかし、経済学的に言いますと、自然に大学に進学をして向こうで就職するのですから、当たり前で、別に強制されているわけではありません。
 そういう状況ですから、地方から貴重な人材が東京なり大阪に供給される、都市の繁栄を支えているというのが感じられません。ですから、このことをきちんと根底で評価し、一方的に大都市が金もうけして、あまり金もうけのできない非効率な地方に地方交付税等財源を与えているという発想は、一方的で正しくないということを私が書いた「ふるさとの発想」で申し上げています。
 それはせいぜい戦後の話でありますが、もっと時代を遡ると、こういう時代があるということを分かって欲しいと思います。明治時代の話で、今から120~130年前の話です。マクロ経済ではなく、経済史の話になります。明治時代のtax、税金の話です。今は消費税だとか、所得税、法人税ですが、明治時代の税金は何の税金でしたでしょうか。江戸時代の税金はお米でしたね。明治時代は何でしょうか。産業はまだ発展してなかったので、地租です。今で言う固定資産税です。法人税や消費税があったわけでもありませんし、自動車税があったわけでもガソリン税があったわけでもありません。それが基本です。
 名前は違いますが、江戸時代とそんなに変わりません。地租です。これが基本です。農業からあがるものです。信じられないかもしれませんが、地租というのは明治初期の国税の収入の3分の2くらいありました。多いときには9割が地租でした。富国強兵ですね。殖産興業の途中までそういう状態でした。そこでその地租の最大の納税地域はどこだと思いますか。北陸3県と新潟県が納めた地租は、東京が納めた地租の4倍ありました。つまり大都市の税金ではなく地方の税金をほとんど大都市に持っていって文明開化、あるいは富国強兵がなされたと言ってもいいかもしれません。
 福井県の我々の先輩のお金、ひいおじいさん、ひいおばあさんのお金が使われて、日本が発展してきたということですから、歴史的に長いスパンで考えると、地方がわが国を作ってきたのだと言わざるを得ません。我々が大人になるころの高度成長期の公共投資というのは、ほとんど太平洋ベルト地帯に集中し、その結果が今であります。それを基に、儲かっている儲かっていない、あるいは、どっちで税金があがっているから地方に配っていいのかどうか、そんな議論を単純にすべきではないということです。これから様々な問題があった時に本当に大都市だけでイメージできるのかということを考えなければならないというのが、「歴史的な説明」を引っ張り出した現状であります。
 フランスの思想家でルソーという人がいます。世界史の中でよく出てきますが、一度ルソーの書いた本を読んで欲しいと思います。図書館にあると思います。そんなに時間はとりません。エミールというのはちょっと長いですが。不平等起源論とかいろいろありますから、一冊読んでみてください。頭がスカッとするところがあります。
 私の素人的な考えで申し訳ないのですが、彼には論理があまりありません。エモーションというか、感情がものすごくある思想家です。ですから若い方にはぴったりです。暗い本ではありません。辛気臭くはありません。エネルギッシュなことが書いてあります。青春的な思想家ですね。ですから、皆さんの今の年齢で一度読んでもらうと良いと思います。211026講演写真2
 ルソーが言っているのは、少し似ているのです。彼は大都市が嫌いです。パリが大嫌いです。あそこは地方から収奪して消費をするだけの町だ、何もない、ブラックホールみたいなものだと彼は言っています。一回その辺りを勉強してほしいと思っています。これから重要なことは、大都市が地方を支えているものではない。地方はエネルギーあるいは人材、いざというときの、英語でいうとリゾートとなるのですが、そういう地域でなければならない。
 それで、三位一体改革とか構造改革でも気をつけなければなりませんが、地方というのは、負担をすり替える場所にしては決していけない。国や大都市の困ったことを地方に付け替える、国の財政が良くないとか東京が良くないという発想はよくありません。そういう改革は本当の改革ではないのです。三位一体改革でもそうでしたが、税金はなるほど増えましたが、補助金はその分減りました。地方交付税までも、地方の共通の財源が減りました。これは、地方の負担において改革がなされたような見かけをとったということで、こういうことは決してなされてはいけません。かと言って、地方だけでは自立できません。互いに助け合う、相互依存が重要であります。一方的ではないということです。
 以上で私の講義を終わります。
 

アンケート
ウェブサイトの品質向上のため、このページのご感想をお聞かせください。

より詳しくご感想をいただける場合は、までメールでお送りください。

お問い合わせ先

(地図・アクセス)
受付時間 月曜日から金曜日 8時30分から17時15分(土曜・日曜・祝日・年末年始を除く)