日伊地方分権シンポジウム 「わが国の道州制論と地方分権について」

最終更新日 2010年2月4日ページID 010246

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 このページは、平成21年11月26日(木)、「わが国の道州制論と地方分権について」という演題により、イタリア文化会館(東京都千代田区)で行われた知事の講演概要をまとめたものです。

 Ⅰ 私の基本的なスタンス
 Ⅱ 日本とイタリアの地方制度は異なるところが多い
 Ⅲ 道州制論者が前提とする社会像は日本社会の実態と不整合である
 Ⅳ 道州制の弊害について考える
 Ⅴ 道州制論は、どこで、誰が、どのように発信しているのか
 Ⅵ 道州制論は歴史的にどのような経緯を経てきたか
 Ⅶ 道州制ではなく何を目指すべきか

 みなさん、こんにちは。
 ご紹介いただきました福井県知事の西川一誠です。
 本日は、「日伊地方分権シンポジウム」にお招きいただき、わが国の道州制論について、私の考えをお話しする機会を与えていただきありがとうございます。
 日本の知事は任期が4年でありまして、私は今、2期目、7年目になります。
 今日は、表題にありますように、日本の道州制論について、地方分権の視点も絡めながらお話したいと思います。


【Ⅰ 私の基本的なスタイル】

211126講演写真1 まず、道州制論に対する私のスタンスについて申し上げます。道州制論に対する私のスタンスは、反対、少なくとも慎重派といったものです。それは何故か。一言でいえば、無益なことを夢想しているに過ぎないからです。

 道州制は流行病のようなものです。それぞれの時代時代の政治的な行き詰まり、あるいは経済的な行き詰まりを打ち破るための、いわば魔法の杖として論じられることが多いのです。ここ数年の日本における道州制論も、日本経済の行き詰まりに端を発するものだと考えます。経済政策だけでは経済の立て直しが難しくなったため、行政分野に企業の経済論理を持ち込み、その余得と申しましょうか、方法によって経済の立て直しを図ろうとしているのだと思えるのです。このような考え方で地方自治が歪められるようなことがあってはなりません。

 そもそも、道州制論については、言葉のみが先行していると考えています。しっかりとした制度理解のもとでの議論が行われてはいません。また、道州制論など、一種のイデオロギー的な制度論については、一時的な熱に浮かされ、大勢を見誤ってはなりません。推進の考え方のみが前面に出て、議論をミスリードするようなことになってはならないと考えます。

(この夏の衆議院議員総選挙)
 この夏の衆議院議員総選挙について申し上げます。
 わが国では、今年の8月に衆議院議員総選挙が行われました。7月の衆議院解散後、1か月にわたり、各政党がマニフェストを提示しました。わが国最初の国政におけるマニフェスト選挙であります。マニフェストについては、私は一期目からマニフェスト選挙を行っております。

 この選挙での主要政党の道州制に関する見解は推進派あり、慎重派ありとさまざまでした。道州制に関する見解の相違が衆議院議員総選挙の帰趨を決したわけではありませんが、結果として道州制については慎重な態度を表明していた民主党が選挙に圧勝し、新たに政権の座に就くことになったのです。

(民主党政権下における道州制論の行方)
 民主党政権下における道州制論の行方がどうなったかということですが、当面、道州制に関する国政レベルでの議論は、選挙前に比べ鎮静化するのではないかと思います。自由民主党政権下で置かれていた道州制担当大臣はなくなりました。また、先日の官房長官発言では、政府に置かれていた「道州制ビジョン懇談会」は廃止されるようです。

 しかし、流行病の道州制論は、いつ、どのような政治状況あるいは経済状況あるいは国際状況を受けて議論の俎上に上らないともかぎりません。民主党においても、道州制を完全には否定しておらず、政党のマニフェストの詳細版ともいえる政策論集というものがありますが、その中で「都道府県等が効率的な運営を図ることなどを目的として、現行制度を前提とする広域連合や合併を実施、将来的な道州制の導入も検討していきます。これらについては、地域の自主的な判断を尊重します」という表現になっています。

 また、そうした記述を受けて、大阪や京都を中心とした日本の西の中心である関西地域では、広域連合という地方自治法上の制度を利用して国の出先機関を丸ごと引き受けようとする動きがあります。こうした制度論は、手段と目的が入れ替わったものです。道州制を誘引しかねない動きであり、十分注視しなければならないと考えています。

(今日の話の構成)
 さて、今日は6つの点についてお話したいと思います。まずは、日本とイタリアの地方制度を比較します。その上で、数か月前まで盛んに議論されていた近年の道州制論が、本当に日本の実情に合ったものなのかを検証します。どこか間違った視点から議論が行われているのではないか、論理がすり替えられていないかを明らかにしたいと考えています。
 さらに、わが国の道州制論がどのように議論されてきたのか、その歴史、歴史的説明も必要ではないかと思います。最後に、わが国が道州論よりも別に目指すべきものがあることをお示しできればと考えています。

【Ⅱ 日本とイタリアの地方制度は異なるところが多い】

 日本とイタリアの地方制度についてであります。それは異なるところが多いと思います。まず、日本とイタリアの地方自治制度を大まかに比較してみます。その方が日本の道州制論がわかりやすくなると思います。

(地方自治の基本的な枠組み)
 まず、地方自治の基本的な枠組みについてであります。
 日本の地方自治制度は都道府県と市町村の二つの地方公共団体による二層制をとっています。ただし、日本の憲法では「地方公共団体の組織および運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める」と規定されているのみでありまして、「普通地方公共団体を都道府県と市町村とする」ことはより下位の地方自治法で規定され、そこに具体的に都道府県と市町村の類型が出ています。

 一方、イタリアは、州、県、コムーネの三層制をとっており、既に州制度を導入しているとお聞きします。イタリアでは、2001年の憲法改正により、地方自治体として州が位置づけられ、その組織の基本原則が憲法に定められるとともに、法律の制定権を有するということになったと聞いています。ただし、イタリアの州は憲法を制定する権限までは持たないと理解しております。アメリカの州のように連邦国家を形成する単位ではありません。

(地方自治体の団体数と規模)
 日本とイタリアの地方自治体の大きさや数の比較であります。
 イタリアの基礎的自治体であるコムーネは約8,100団体あり、その平均人口は約7,000人であります。そして、人口5,000人未満のコムーネが約7割を占め、一方、人口の大きい、人口10万人以上のコムーネは全体のわずか0.5%であると聞いております。
 また、日本のコムーネに当たる市町村は、現在、約1,800団体あり、その平均人口は約7万人です。これは、市町村のうち、市の人口が大きいことによります。人口5,000人未満の市町村は、全体の12%強に留まり、人口100万人を超える大規模な市が11団体あるわけです。横浜市、大阪市、京都市が大きな市です。また、日本の市町村の人口は大都市と地方の村で大きな差があり、最も大きな横浜市の人口は約360万人です。最も小さな青ヶ島村は約200人で、その規模は18,000倍のひらきがあります。市で言いますと、300万人から3万人で約100倍の差があるといえます。

 イタリアにおける広域的な地方自治体である州は20団体、県は106団体あり、州の平均人口は約280万人、県の平均人口は60万人弱であるとお聞きします。
 一方、日本の広域自治体である都道府県は47団体で、東京都もその一つですが、その平均人口は約270万人です。大規模な団体の人口は、東京都が約1,200万人。最も小さな県は鳥取県でありますが、人口は約60万人です。ちなみに、福井県の人口は約82万人です。全国の都道府県の中では小さいグループに入ります。
 この比較から、日本の都道府県がイタリアの州にほぼ相当すると考えていいのではと思います。

(地方自治体の財政規模と仕事量)
 日本とイタリアの地方自治体の財政規模や仕事量を比較したいと思います。
 イタリアの州、県、コムーネの歳出総額と国の歳出規模を対比すると、概ね国75に対し地方25になります。一方、日本の地方自治体の歳出総額と国の歳出規模の対比は、国40に対し地方60となりますから、比率がほぼ逆になります。

 イタリアの県の財政規模は小さく、州の1割弱、コムーネの財政規模も州の6割強となっていますが、日本の都道府県と市町村の財政規模はほぼ同じ規模です。そして、国が40に対し地方が60ということです。
 このように、歳出規模から推測して、日本の地方自治体の方が、イタリアの州、県、コムーネより多くの仕事量を担っており、実際の比較は必要でしょうが、大変であるといえるでしょう。

(地方自治体と国との協議の場)
 日本とイタリアの地方自治体と国との関係について、特定の問題について述べたいと思います。
 イタリアには、州、県、コムーネが集まり、国との間で課題を協議する場として、「国家・州会議」、「国会・都市会議」、「統一会議」の3つの機関があるとお聞きします。
 現在、日本にはそのような協議の場はありません。この9月に発足した新しい政権の下で、こうした協議の場の設置について検討が始められています。地方自治体としては、新しい政府に対し「事実上の協議の場」を早急に設置するよう求めているところですが、新しい政府には、協議の場を法律化するという動きがありまして、来年の通常国会へ関連法案を提出する準備を進めていると聞いています。
 イタリアにおける「国と地方の協議の場」がどのようなものなのか、どのような根拠に基づくものか、また、年何回、どんな時期に、何をテーマにして行われるのか、後ほど教えていただきたいと思っています。

(地方自治体に対する国の関与)
 もう一つ、日本とイタリアの地方自治体において、国からの関与がどの程度あるかということであります。
 イタリアには国と地方の協議の場があるわけですが、一方で、イタリアの県には、国の代表者である県地方長官、プレフェットですね、国家公務員といいましょうか、が置かれ、地方自治体に対する国の委任事務を監視しているとお聞きします。また、国の地方事務所の事務を統括しているとうかがっています。
 日本の都道府県には、そのような関与の仕方のシステムはありません。ただし、日本では、国の法律で、さまざまな義務付けが、わりあい細かく地方自治体に対して課せられています。また、日本の地方における国の事務は、国の地方出先機関が行っているのも日本の特色です。

(イタリアにおける「スーパー・リージョン」構想)
 イタリアの憲法改正と「スーパー・リージョン」構想についてお聞きしたいと思います。
 さて、イタリアでは、2001年に憲法が改正され、大きく地方自治制度が変更され、現在、その趣旨に沿って、州等に事務権限が移譲されつつある状況であると聞いております。また、地方自治体の財政的な自治権を拡大する一方で、国から地方自治体へ財政支援を行う「均衡化基金」が創設されているようであります。州等への権限移譲が、現在、どの程度進んでいるのか、また、財政的な面で不都合は生じていないのかについて、逆に教えていただきたいと思います。

 また、イタリアでは、現行の州を束ねて「スーパー・リージョン」を導入すべきだとの議論があるようです。現在、日本で議論されている道州制論に似ているようにも聞こえるのですが、どういう関心からの議論なのか教えていただければと思います。

 さて、これらを踏まえて、日本の道州制論についてのお話に入りたいと思います。

【Ⅲ 道州制論者が前提とする社会像は日本社会の実態と不整合である】

 道州制論者が前提とする社会像は日本社会の実態と不整合であるというお話をここで申し上げたいと思います。
 道州制論者は、都道府県制度が日本の国民生活の実態に合わなくなっていると主張しますが、果たして本当かどうか。また、道州制論者が、道州制を思い描く際の前提となる日本の社会像、国家像は正しいかどうか。この点について、データ等を引用しながら、また、諸外国の制度とも比較しながら明らかにしたいと思います。

(都道府県を越える活動は少ない)
 まず、都道府県を越える活動は実は多くないというお話をしたいと思います。
 道州制論者は、都道府県域を越えた人の動きが多くなっている、だから、都道府県を広域化しなければならないと主張します。しかし、本当にそうでしょうか。データを見てみますと、県外への通勤・通学の機会が多いのは、主に東京や大阪などの大都市圏です。日本の平均は8.5%です。平均を上回るのは、東京都周辺の埼玉県や千葉県、神奈川県、大阪府周辺の奈良県や兵庫県、滋賀県などの9府県に集中しています。

 経済圏が広がっている、交通網が広がっている、通勤・通学圏は広がっているといわれますが、実際は、大都市圏を除くと、住民の通勤や通学等の生活圏が県境を越えることは、比較的稀です。
 例えば、大都市圏から離れまして、日本海側に位置する福井県やその近くの県、お手元の地図で言いますと青いところで、北陸エリアといわれるところですが、福井、石川、富山といった人口100万人前後の県が集まっているエリアです。その県外への通勤・通学率は、富山県で1.5%です。石川県で1.2%、福井県でも1.2%しかありません。つまり、1%ちょっとしか動いていないという事実であります。

 こうした数字を見て、全国の都道府県を一律に広域化する必要、すなわち道州制を導入する必要を果たして実感できるかということです。地方の住民は、こういう生活圏域の中で普通の暮らしをし、自らの幸せを求めているわけでありまして、生活の実態から見て、都道府県は今のままでも十分な広さであり、その地域の中で生活できるものと考えます。
 道州制論者は、日本各地の人々の活動が、大都市における住民の活動と同じであるかのように、バイアスといいましょうか、そのような見方に立って考えているのだといえます。大都市圏の感覚や論理で、わが国全体の姿を論じるべきではないと思います。

(都道府県は小さいか)
 都道府県の今の大きさは小さいかという問題であります。諸外国における州、イタリアもそうですが、あるいは国の規模と比較して考えてみたいと思います。
 道州制論者は、日本の経済成長やグローバリゼーションの進展を基に、都道府県は人口、面積、経済規模などの面で小さすぎる、もっと大きくすべきだと主張します。しかし、果たしてそうなのだろうかということです。

 まず、諸外国においても、現在の都道府県よりも人口規模の小さな広域地方政府は多数存在します。福井県は、日本の中でも人口、経済規模ともにあまり大きい方ではありません。しかし、例えば、イタリアの州と福井県を比較した場合でも、人口で4州が福井県とほぼ同じか、少ないのです。日本の都道府県の平均人口と比較すると、これより少ないイタリアの州はもっと多いはずです。
 グローバリゼーションの進展という社会状況の変化を踏まえ、経済界の道州制論者からは、都道府県は小さい、狭いと言われていますが、住民の活動域として十分な広さを有しており、また、イタリアなど欧米諸国の州と比較しても人口規模が小さいとはいえないのです。

 また、ヨーロッパにおける大きな国と小さな国の成長率を比較すると、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアそれぞれに成長していますが、ベネルックス3国のような小さい国が頑張っているというのも事実です。これらの国は、規模はそれほど大きくはありませんが、生活水準が非常に高い国々であります。
 余談ですが、福井県は、子供たちの学力、体力の全国テストで日本一の県にここ数年なっています。これをみても、規模だけ大きければいいわけではないことが言えると思います。住民に公共の福祉がよりよく感じられ、よりよく知られ、住民のより身近にあるためには、ただ大きければよいということにはならないと考えます。

(都道府県制度は住民に親しまれている)
 次は、住民や国民の心情についてといいましょうか、道府県制度は住民に親しまれているということです。住民にも都道府県に対する愛着があるということです。住民のアイデンティティや愛郷心というものがあるということです。

 福井県では、道州制に関するアンケート調査を独自に行いました。道州制の導入に反対が約6割。賛成が約2割。分からないが約2割です。
 反対の主な理由は、「今の都道府県に親しみや愛着があるから」、「きめ細かな行政ができなくなるから」、「地方分権につながるとは限らないから」などです。
 また、日本世論調査会の調査結果もよく似た傾向にあります。

 日本で、あなたはどこの人だと聞きますと、すなわち出身地ですね、それを聞きますと、多くの人は都道府県名で答えます。私は福井県生まれですと言うわけです。イタリアは違うかもしれません。

 また、わが国の町村の首長や議員たちも同じ感覚を持っています。「道州制は国民の感覚からは遊離したものとなっている」、「道州制が導入されても地域間の格差が解消されるとは言いがたい」、「道州制の導入により住民自治は衰退し、ひいては国の崩壊につながる」などの理由から、道州制に対して強く反対しています。

 イタリアには「カンパニリスモ」という愛郷心を表す言葉があると聞いております。幼い頃から聴いて育った教会のカンパネルラに愛郷心を感じるということです。また、地方ごとの方言に対する愛着もとても強く、都会のカフェを訪れた客が、ボーイと同じ方言を使うことがわかると、ボーイのサービスが格段に良くなるというようなエピソードも聞いたことがあります。

 このように、誰もが出身地に対する愛着、すなわち愛郷心を持っているといえるでしょう。行政区画を考えるとき、このような愛郷心というものをどのように考えるべきか、ということに思いをいたす必要があります。

【Ⅳ 道州制の弊害について考える】

 次に3つめの話をします。
 これまでは、日本には道州制は必要ないとの話を申し上げてきたわけですが、道州制が導入されたと仮想した場合、日本の社会にどのような弊害をもたらすかということであります。

(道州内の格差が拡大する)
 1つは、道州内の格差が拡大するということです。
 道州制を導入することにより発生する弊害の1つとして、中心都市への一極集中に伴う道州内の格差拡大の可能性が考えられます。中央集権的な「道州」の誕生により、州都とそれ以外の地域に、新たな州都一極集中の問題が生じると考えられます。

 日本の一番北は北海道という島で、都道府県の一つです。一方、九州は南西部にある島で、7つの県で構成されています。そこで、この2つの島を比較してみるわけです。
 北海道の中心都市は札幌市というまちです。過去に冬季オリンピックが行われました。九州の中心都市は福岡市というまちです。県と同じ名前です。
 過去25年間にこれらの都市へ人口がどの程度集中したのか、その状況を比較してみます。すると、島内に7つの県庁所在地が分散している九州では福岡市への集中が穏やかになっているわけです。しかし、北海道では札幌市への集中が著しいという傾向が現われるのです。それによって北海道が繁栄しているのならよいのですが、そのような話は聞こえません。福岡市は、九州全体の人口の10%を占めていますが、札幌市は北海道の人口の33%を占めています。その増加割合は強いということであります。他に核となる都市がないと、どうしても中心地域に人が集まり、周辺部が寂れ、全体も活力がなくなる傾向があるということの現れだと考えます。

 現在の都道府県には県都を中心に活力が残っています。しかし、道州制を導入した場合には、ミニ東京的な州都へ、様々な機能が集中することは想像に難くありません。例えば、東北では仙台市に、九州では福岡市に、中部では名古屋市に集中し、その他の都市が寂れていくのは目に見えているのではないかと考えます。以上が道州内の格差拡大の弊害であります。

(道州間の格差が拡大する)
 次に、道州間の格差の拡大の問題であります。
 現在の日本の社会資本の整備状況をみますと、地方圏における整備が今ひとつ進んでいないのが実情でありまして、この社会資本の整備は早急に進めなければなりません。しかし、まだしばらくの時間を要すると思います。
 今、福井県は北陸新幹線の整備を急いでおりまして、北陸3県の石川県までは計画が決まっているのですが、新しい政権では福井県は白紙の状態になっています。こうしたことから、ここ数日、私は東京で要請活動をしております。

 このように、現状では、社会資本の地域間格差を完全に解消することが困難であり、また、イタリアも似ているかと思いますが、日本ほどではないと思いますけれども、日本は山がちな地形であります。地理的な条件等から道州間に格差が生じることは避けられないと考えます。

 例えば、地域の社会基盤の状況により格差が生じているものとしては、JR、昔の国鉄をあげることができます。日本の国有鉄道は、今から約30年近く前になりますが、1987年に6つの地域別の旅客鉄道会社、つまりJRに分割されています。6つのJRのうち、平野部を持ち、地域内の人口が多く、新幹線が整備されているのはJR東海、JR東日本、JR西日本でありまして、これらは収益をあげています。JR東海などは最も収益を上げております。一方、北海道や四国、九州のJRは恒常的に赤字が発生しており、分割するとき貯金をもらったのですが、それでも間にあわないという、こういう状況にあります。

 このような社会状況を前提にしますと、自治財政権の名の下に、地方交付税、道州間の財源調整システムのない新しいタイプの道州国家をつくろうとすることは、格差の発生を当然とする考え方に基づくものであるといえます。こうした格差社会となることが予想される道州制を、果たして国民は認めるだろうか。認めないだろうということです。道州間の格差と道州内に生まれる新たな格差は、日本国内における大きな格差となってさらに国民にのしかかってくる可能性があるのです。

 さて、イタリアにおいて州制度を導入した際、こうした問題が生じなかったのか。経済力があり社会基盤も整った北部の州と、主な産業も農業以外になく、社会基盤の整備が遅れていると想像される南部の州との間に、大きな格差が現れたのではないでしょうか。ぜひ、実情を知りたいと考えます。

(地方自治体間の財政調整が困難となる)
 道州間に格差が発生するといった懸念を述べますと、道州制論者は、道州間で財政調整をすればよいではないかと反論するわけであります。しかし、道州の自立性を高め、国の関与を極力減らすという道州制の理念に照らすと、この主張は言うは易くとも行うは難いと思います。単純に考えても、豊かな道州が、財政の厳しい道州へ簡単にお金を工面してくれるわけがないと思います。

 豊かな道州の住民が、自ら納めた税金を、財政の厳しい他の州のために分配することを可とするでしょうか。そのような議案が道州の議会で議決されるとは考えにくいのです。仮に、私が東京都を擁する州の知事であったなら、州から上がる税収を他の州に渡すようなことはなかなかしにくいと思います。例えば、余剰の税収を集めて、オリンピックや他のことに使うかもしれません。

 財政調整は、国全体として行うならともかく、道州同士で話がまとまるとは考えられません。そうなると、財政の厳しい道州では、行政が縮小方向にシフトし、萎縮した政府になると思います。人口規模、経済規模が小さい道州は、仮に、自分で全てを決める決定権限を持ったとしても、持てる財政力の範囲内では住民サービスに限度が生じ、限定された行政施策しか実施できなくなる可能性があります。これも一種の行財政改革であると言えるのかもしれません。しかし、そのような自治体像が、国民の求める将来の日本の姿なのかということが問題であり、そこに住む道州民は、決してそれを良いことだとは考えないと思うのです。

(道州制では、民主的な選挙が行いにくい)
 次に、道州制は非民主的な制度であり、民主的な選挙が行いにくいということであります。
 若干脱線しますが、日本の知事選挙運動期間は17日間です。会場で演説をしたり、選挙用の車に乗って選挙区内を回るわけです。17日間ありますと、福井県内を2回まわれます。しかし、広い道州となると、なかなか隅々まで皆さんの意見を聞きに出向くことは難しいと思います。
 また、大きい州ができますと、例えば、福井県の県議会議員数は、今は40人ですが、福井県に割り当てられる議員数は5~6人になってしまうと思います。十分な意見の発表の機会がなくなると思います。

 おそらく道州になりますと、選挙民が1,000万人を超える地域では、知事候補者と有権者とのコンタクトがとれなくなるので、メディア選挙、イメージ選挙、このようなものになってしまうと思います。マスコミ、メディア主導、イメージ先行型の選挙になってしまい、民主主義の空洞化をもたらすのではないかと思うのです。

 いずれにしましても、地方の少数意見が吸い上げられにくくなり、住民が自治体をコントロールするという住民自治の機能が低下する、このことは、地方にとっても国にとっても、民主主義の観点から好ましいことではありませんし、住民の関心が薄れ、愛郷心、ひいては愛国心を失わせるもとになると、私は思うのです。

(道州制は住民が不在の仕組みで、地域の問題が解決しにくくなる)
 もう1つの弊害を申し上げます。道州制は住民が不在の仕組みになりがちだということであります。

 福井県は都市部へ電力を供給する原子力発電所が数多く立地する地域です。15基の原子力プラントを持っています。大阪府、京都府、兵庫県、奈良県、滋賀県、和歌山県のすべての地域の半分以上の電力を福井県から提供しているのです。東京都の電力は、3分の1が福島県から提供されているはずです。しかし、このような地域に生活する住民の「ナマ」の生活感情を、大都市部にある州都で、電力だとか、水だとか、食料だとかについて十分理解できるかというと、不十分だろうと思います。

 イタリアを例にとりますと、ローマのあるラツィオ州と対岸の離島のサルディーニア州が一つの州となった場合を想像してみてください。その時、州都となったローマに住む州庁の職員が、サルディーニア州の海辺の寒村の住民の生活感情をどこまで理解できるだろうかということになりますと、おそらく理解することは難しいのではないでしょうか。

 また、子どもたちの学力調査ですとか、医療機関の実態ですね、すなわち、どこに、どういう病院があり、どのような医療が行われているか、また、失業の状況、地域の産業構造はどうなっているのかといった問題、雇用のミスマッチの問題などを考えても、行政区域が大きくなればなるほど、目も行き届かなくなり、まるで自治体ではなく国のような仕事しかできなくなると想像されます。結局、地域の実情もわからない道州庁が行政を進めることになりまして、各地方の良いところも、悪い意味で平均化されてしまうのです。

(整合性の取れていないバラバラな制度は、地域の対立と混乱を招く)
 それから、次は、整合性の取れていないバラバラな制度は、地域の対立と国民の混乱を招くということであります。弊害をたくさんあげてしまったのですが、最後にもう1つだけ付け加えたいと思います。それは、国内に整合性のとれていないバラバラな制度が道州ごとに設けられると、かえってコスト高の社会になる可能性が高いということです。道州制議論を見ていると、道州ごとに独自の経済制度や税制を作って、創意と工夫で道州が発展するというバラ色の姿が期待されているようです。しかし様々なビジネスが国内全体をマーケットと捉えている中、道州ごとに経済規制を変えてしまうのでは、かえって不都合があるといえます。

 例えば、建築基準法や消費者保護法が、根本から全然違うものになりますと、建築業や製造業、販売業は、各々個別の対応が必要になってきます。それでは、今以上にコストを要してしまうでしょう。経済学の見地から見ても、道州単位だったら何をやってもいいとは言えないと思います。
 さらに、法人税制が全く違っていたりすると企業はどう対応するでしょうか。税の低いところへ資産を移動させるという工夫をするでしょう。このことは、道州間で税率引き下げの過当競争を生み、国全体として税収が大きく減少する可能性があります。日本社会の現状を考えると、整合性の取れていないバラバラな制度が創設されることを認める道州制の導入は害が多く、一利なしということかもしれません。

(道州制とは、本来、分裂しがちな地方を束ねるための手法である)
 現在、日本で議論されているのは、地方分権を進めるに当たりその受け皿となるための地方自治体の規模や権限をどう考えるかという道州制論であり、地方が独立した憲法制定権をもつ連邦制ではありません。そもそも連邦制やそれに近い道州制は、ヨーロッパの近代国家が分裂しがちな地方を束ねていくために作ったものです。
 それぞれの地域が分裂しているのを、いかに一つの統一国家として、近代国家としてまとめられるかということで、連邦制度がその手段であるということでありますが、これは大航海時代の地域の大きさですね、それに都合の良い地域の大きさですね、これをなんとかして、近代以降、一つの統一国家として、イタリアもそうだったと思いますが、まとめようという大きな歴史の流れであります。道州制論は、むしろそういう時代に逆戻りしようとしている制度ではないかと、私は思っています。

 幸い、日本では、16世紀後半から、織田信長という武将の時代でありますが、単一の国家としてまとまりを持っていました。これが、江戸から明治への歴史的転換点においても、わが国をかろうじてヨーロッパの列強諸国の侵略から守ったという歴史的効果を発揮したのだと思います。
 このように、単一の国家としてまとまりがあり、パフォーマンスを発揮できる日本を、さまざまな弊害が予想されるにもかかわらず、なぜ、道州制論といった考え方で分けて考える必要があるのか私には理解できません。ヨーロッパの方々にも、日本における道州制論は誠に不思議なものに映るのではないかと私は想像します。

 イタリアの16世紀の政治思想家であるニッコロ・マキャベリは、「ティトス・リヴィウスの最初の十巻についての論考」、日本では「ローマ史論」と訳されていますが、この中で、「われわれが常に心しておかねばならないことは、どうすればより実害が少なくてすむかということである。とりうる方策のうち、より実害の少ない方策を選んで実行すべきなのだ」と彼は述べていますが、まさに道州制論はそういう見地でみるべきものであると思います。

【Ⅴ 道州制論は、どこで、誰が、どのように発信しているのか】

211126講演写真2 あと、数点お話をしなければなりませんが、ここでちょっと観点を変えて、閑話休題と申しましょうか、道州制論はどういうところから発信されているのか、どういう人々が唱えているのかということを、切り口を変えてお話したいと思います。道州制論というのはどのような立場の人が、どのような思いで仰っているのか、想像して言ってみたいと思います。

(大都市からの道州制論)
 日本で道州制が議論されるのは、大都市の行政にかなりの行き詰まりがあるからではないかと思っています。
 例えば、大都市圏、すなわち、東京都や大阪府の周辺の府県には、府県並の権限を有する大都市が数多くできており、都道府県の役割が見えなくなっている傾向があります。このため、大きな都市を抱える府県では、自らの権限を発揮するために、府県を超えるもっと大きな枠組みをつくり、そこにより大きな権限を持とうとしているのではないでしょうか。

 また、大都市では、選挙の投票率の低下、住民の自治意識の低下、ライフラインの維持などが困難であること、生活保護が増えていること、犯罪の多発など安全な生活が脅かされていることなど、多くの課題が発生しています。こうした課題を、大都市自身が自ら主体的に解決することをややあきらめかけているとはいいませんが、十分に立ち向かっていないというわけでありまして、そのことを、無意識に道州制論へすり替えているのではないかと思います。

(道州制を唱える人々)
 その証拠に、道州制導入論者は、大都市圏の自治体の長や大都市圏選出の国会議員、また経済団体が中心となっています。
 例えば、道州制を主張している経済界の方々ですが、経済的な利益追求の手段として道州制を議論しているのではないでしょうか。しかし、行政と経済は別物だと思われます。

 また、大都市を抱える府県の知事も、一部を除いて道州制を主張する方々が多いのです。一つには、道州制が導入された場合、その州都を地元の都市に誘致することが、その地域の発展につながるという思いがあると思います。また、先ほども述べたように府県並みの権限を持つ大都市に対抗し、知事としての権限を充実させるためには、より大きな道州制という制度が必要であると感じているのではないでしょうか。
 道州制の議論は、主にメディアから、また大都市から発信されておりますし、人口も多いですから国の政治にもいろんな意味で大きな影響を持っているわけです。大都市問題を解決するための道州制ならば、もっと地方のさまざまな地域で地道に政治や行政を行っている者には、いわば傍迷惑な話であるといえます。

(道州制論は、日本の様々な社会問題を一挙に解決する万能薬として論じられている)
 ここで、少し精神論的な面から申し上げますが、道州制は日本社会が抱えている問題を一挙に解決する万能薬として論じられているというところがあります。日本人には、根本の制度を変えると、全て万事が上手くゆくという思いこみをする国民性があるように感じます。根本の制度を変えないことには何事も上手くいかないとの思いこみが強いわけであります。これを称して「根本病」といいます。昔、ある政治思想家がそのように言っていたと思います。しかし、制度を変えただけでは何事も変わりません。制度を動かす人間の心、考えが変わらなければ制度は上手く機能しないものです。道州制論も同じような問題であると思います。日本の社会が抱えている問題を一挙に解決する万能薬のような扱いになっていると思います。

 しかし、世の中にはそう都合の良いものはありません。一つの問題を解決するために良く効く特効薬はあるかもしれませんが、何にでも効く薬というのは、つまるところ何にも効かないものです。にもかかわらず、せっかちにこうした万能薬に頼ろうとするのは、手短に表面の結果を得ようとするからではないでしょうか。政治とはそういうものではありません。マックス・ウェーバーが「職業としての政治」の中で「政治という仕事は、情熱と判断力の両方を使いながら、堅い板に力を込めて穴を開けていくような仕事」と述べていますが、情熱と根気をなくすとついつい安易な制度を求めがちになります。

 国や地方の「機構いじり」を壮大に論ずるよりも、地域の実情に合った自立の種を育てる一方、どこにいても安心して医療・福祉・年金を受けることができる、ミニマムレベルといいましょうか、ナショナル・ミニマムの充実こそ、行政・政治の目的だと思います。目前にある一つひとつの課題に根気よく取り組み、解決していくことが大切なのです。

(金解禁 日本の政治における失敗例)
 ここで、日本の代表的な失敗政策の例として「金解禁」の話をしたいと思います。
 第1次世界大戦後、アメリカが金解禁を行い、その後ドイツ、イギリス、イタリア、フランスが引き続いたことから、日本でも金解禁論が高まりました。当時の為替相場の不安定さに悩まされていた日本国内の金融界、貿易関係の業界では、金解禁による為替相場の安定を求める声が支配的になったのです。
 こうした経済界の状況を背景に、為替相場を安定させ、輸出を促進するため、当時の政府は金解禁に踏み切るのですが、その際、国の威信にこだわり、金解禁時の平価を旧平価で行ったのです。他の国々は、実態に合わせて平価の切り下げを行いました。この結果、円高を引き起こし輸出が振るわなくなるばかりか、おりしもアメリカに端を発する世界恐慌のあおりを受けて、日本から多量の金、現在の価値で9兆円が流出したという記録が残っています。そして、その後の第二次世界大戦への混乱へとつながったのです。

 こうした金解禁論は、当時は、政府も、企業も、メディアも、国民までもが知らずに賛成をした政策だったのですが、現在の評価は全く異なります。このように、世界中に大きな影響を与える政策であっても、必ずしも十分な分析を行っているわけではなく、また、皆でじっくりと考えて結論を出しているわけでもないのに、その時代の周囲の雰囲気に呑まれて、付和雷同していることが多々あるのです。
 社会一般に流布しているかにみえることが必ずしも正しいわけではありません。自分自身の考えを持って、時代の風潮に流されることのない判断が必要だと私は考えます。

【Ⅵ 道州制論は歴史的にどのような経緯を経てきたか】

 あと1点申し上げたいと思います。この道州制論がどのような歴史的原因をもっているか、歴史的な説明を申し上げる必要があると考えます。

(戦前の道州制論)
 戦前の道州制論のおさらいをしたいと思います。日本の場合、われわれ都道府県知事は、戦後、新しい制度ができて公選となっていますが、戦前は官選制の知事でありました。第二次世界大戦前の日本の地方制度は、自治という部分は少なく、府県は国の地方行政組織の一部、府県知事は中央政府が任命する「官選知事」であり、国の事務を実施する機関として位置づけられていました。

 こうした制度の下、昭和初期、1920年代後半で、イタリアで言うとムッソリーニの時代に相当するかと思いますが、田中義一内閣のとき「州庁設置案」が提案されました。日本における道州制論のはしりです。この内容は、全国47の道府県を大きく6州に分け、官選の州の長官を置き、その下に改めて公選の府県知事を置くというものでした。
 公選の知事の導入というと民主的な改革にも聞こえますが、その目的は、将来ありうる戦争遂行のために国民の協力を調達するといいましょうか、行政の効率化を図ることが主たる目的であるというのが歴史的な解釈であります。しかしながら、この案は、その後の政党内閣制の崩壊により実現することはありませんでした。

(戦後の道州制論)
 戦後になり、新しい地方自治制度が導入されてから10年が経過した1950年代の半ばのことでありますが、府県を廃して、国と地方公共団体の中間団体としての「地方」を設置し、その長は総理大臣が任命するという案が出たのです。また、その長は、「地方」の区域を管轄区域とする国の総合出先機関としての「地方府」の長を兼務することとされていました。

 この案が提案された背景には、国の出先機関が数多く地方に設置され、行政効率が悪いのではないかとの批判が出ていたこと、地方自治体の財政状況が厳しくなっていたこと、さらにアメリカ合衆国の占領下に進められた地方分権政策を見直すという考えがあったことなどがあげられます。しかし、新憲法の考え方が国民の中に根付きはじめ、日本経済に高度成長が訪れたため、この案は日の目を見ずに廃案になりました。

(経済界主導の道州制論)
 その後、1960年代に入り、高度成長へということになります。そして、こうした流れを受け、1969年に経済界から道州制論が提案されます。特に、関西からの提案が多かったのです。どちらかというとアンチ東京的といいますか、既に現れ始めていた東京への機能集中に対する対抗手段的な要素があったかと思います。
 その後しばらく、道州制は沈静化します。そして、高度経済成長後、2度にわたる石油ショックが続く時代になります。

(現在の道州制論)
 そして、今回の道州制論の歴史的説明でありますが、1990年代以降、ソ連の崩壊による冷戦の終結に伴って、国際政治や国際経済がそれ以前に比べ格段に複雑化し、国がグローバリゼーションといった課題の解決に取り組まなければならなくなったわけです。また、地域では、平均寿命の延長、出生率の低下から、少子・高齢化の問題がでてきました。社会保障制度の持続、介護の問題、これを、国と地方が協力して解決することが求められたのです。そして、国、地方ともに、その中で財政状況が厳しくなってきました。

 こうした中、1993年、第3次臨時行政改革推進審議会の中で、「官から民」、「国から地方」という行革方針が出され、その中で、地方分権、中央省庁改革、そして規制緩和が出たわけです。こうした中で、地方分権の議論が道州制論に転化されました。日本における道州制論は、地方分権の名の下に、国が「グローバリゼーション」と「行財政改革」をどのように進めるかという議論となったのです。

 その最たる主張は、「地方分権を進めるためには道州制が必要である」という、こういう議論になるわけです。「我が国の経済を強くするためには、道州を設置して経済的な規制の権限や課税権を地方に移譲すべきであり、それこそが地方分権である」という言い方になりまして、そして、国の行政改革への対応を道州制に求め、「究極の地方分権は道州制である」などというスローガンまで現れています。
 今回の道州制論議は、時代背景に後押しされ、偶然の流れといいますか、地方分権と同じ時期に議論されているに過ぎません。まさしく、地方分権とは関係ないのですが、地方分権の一部として論じられている、このように私は思っています。

 なお、イタリア、ヨーロッパでは、EUとの関係でこうした議論がなされているところですが、時間の関係もありますので、一体こうした議論が日本の議論とどういう関係にあるのかは、後ほど教えていただきたいと思います。

(今回の政権交代と道州制に関する論調の変化)
 今回の政権交代と道州制に関する論調の変化でありますが、ここ数年の日本における経済界の道州制論の背後には、東京、ロンドン、ニューヨークといった世界都市間競争、東アジアにおいては「上海メガリージョン」対「東京メガリージョン」といった経済論争がありました。今、政権が変わり、アジア共同体やアジアの一体的な発展という論調が現れています。こうした中、日本の経済界の論調は、国を越えた経済的な結びつきという点に移っているようです。経済界の中の新しいものを追い求める一部の論者たちの主張もこれまでの「道州制論」をちょっと置いて、新しいマスコットといいますか、そういうものを探すのではないかと考えます。
 いずれにしても、道州制論が政治=経済論から、本来の政治体制論の土俵に戻ることは悪くはありませんので、経済界が唱えてきた道州制論のいわば違った姿が見えてくると思います。

【Ⅶ 道州制ではなく何を目指すべきか】
 最後に、数分間ではありますが、それでは、道州制ではなく何を目指すのかということを申し上げたいと思います。

(道州制より国の行政改革を先行すべきである)
 一つは、道州制論より国の行政改革を先行すべきだということであります。
 道州制論のもとは、「国のあり方」の問題に他ならないわけでありまして、現在の道州制論は、国と地方の役割分担や、道州制の制度内容、道州の圏域設定などの、地方の制度改革のみを論じています。国そのものである政府や中央省庁、国会のあり方には何ら触れていません。
 また、道州制論者が指摘する縦割り行政や省益追求等の諸問題は、まさに国自身の問題でありまして、地方の問題ではありません。まず国が変わらずして、わが国の「構造改革」はあり得ないと考えるべきです。道州制ではなく国の行政改革が先行すべきだと思います。

(道州制より国際連携を強化すべきである)
 それから、国は、道州制よりも国際連携を強化すべきだと思います。わが国は、グローバル化に対応するために、国際的な連携を目指すべきであります。
 現在の国際社会は、EUやASEANのように、国を分割するというよりは国を超えた連携を強化する方向に進んでいます。これからの日本は、政治、経済の両面から深まりつつある東アジアの国々との関係に対応する国づくりを目指すべきです。さらに、ヨーロッパ連合とも、東アジアとしてのつきあい方を考えていかなければなりません。このような時に、国内の政治、行政や国民生活に大きな混乱をもたらすかもしれない、国を分割するような道州制論議を行っている「いとま」はおそらくないと思います。

(江戸期末の福井の政治家 横井小楠の政治思想)
 ところで、江戸時代の末期、19世紀後半になりますが、現在の福井県の北部は松平家という大名が治めており、「福井藩」と呼ばれていました。その福井藩の政治顧問として政治改革に貢献したのは、横井小楠という人物です。

 江戸時代は、徳川幕府が日本国を治めていたのですが、19世紀後半にはその力も衰え、日本は統一性をなくし、分裂するような様相を示していました。この時代において、横井小楠は、日本国としての統一性を保つことの重要性を主張し、一つの国として産業振興に当たり、通商を行うべきだと論じたのです。いわば、国としての一体性を高めながら、諸外国と連携するということでありまして、こうした思想は、現代においても十分通用すると思います。

  今年は、彼が生まれてちょうど200年目に当たりますが、今から140年近く前の福井の政治家がこうした卓越した政治思想を持っていたことを誇りに思います。横井小楠の著作「国是三論」は、サッサリ大学教授のパオロ・プッディーヌ氏によりイタリア語にも翻訳されています。機会があればご一読を願いたいと思います。

(都道府県の新たな役割)
 これからの都道府県の知事の役割を申し上げたいと思います。
 都道府県の役割について改めて見ますと、これまでの役割は「市町村の補完行政」「広域行政」「総合行政」と位置づけられてきましたが、近年の市町村合併等の進展を予想しますと、今まさに府県の役割は転換期を迎えています。
 これまで、都道府県の役割は、市町村に対する指導的立場としての役割に焦点が当てられてきました。これにひきかえ、都道府県が国に対して有する役割はほとんど顧みられることがなかったのです。しかし、都道府県は全国の47分の1の地域を抱える広域の地方政府であり、この国全体の政策に大きな役割を担っています。こうした立場から、都道府県の国に対する機能を正当に位置付けることが必要であります。

 こうした機能として国に対する「抑制」と「提案」の2つの役割を申し上げたいと思います。「抑制」とは、中央政府の独走を抑え、集権的な政策の遂行を抑えるようチェックすることです。「提案」とは、中央政府の政策や制度の難点についてその改善方法を提示し改革を図り、政策提案をすることを指します。様々な行政分野でこうした役割を都道府県が果たすことが、今後求められているのではないでしょうか。都道府県による国への抑制あるいは提案機能は、人的にも財政的にも政策的にも実施可能であり、積極的に行うべきだと思います。
 私も、都会に住む人々のふるさとに対する納税意欲を掘り起こし、都会から地方へ税収を移転するための「ふるさと納税制度」という「寄付」を絡めた新しい制度を提案し、昨年実現させています。

 さらに、これからの都道府県が主体的に担うべき役割、その中味は教育や医療ですね、福井県は日本一教育水準が高いということを申し上げましたが、こういうことを進める必要があります。道州のような大規模な広域自治体ではこういうことは難しいと思いますし、医療や介護も都道府県の大事な仕事ですし、一定程度の規模の経済を生かす必要があるのです。それには、都道府県という単位が適切ではないかと私は考えています。市町村の実情を十分に承知している自治体でなければできないことでありまして、いたずらに広域化し、地方の隅々にまで目の行き届かない道州制のような広域自治体では不可能だと思います。

 都道府県や市町村は頑張って仕事をしていますので、国はそれを無駄のないように応援する、こういう新しいタイプの国を作るべくこれからも提案していきたいと考えています。

 以上で、私の話を終えたいと思います。 

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